ここを学者やインテリは勘違いします。肩書きのある者が立派なことを言えば国民はそれにしたがってくれると思うのでしょうが、それは違います。今、僕は一民間人です。僕の意見が、大阪府庁や大阪市役所の最終決定になってもいいでしょうか? それは絶対にダメです。元知事、元市長でも、今は民主主義のプロセスを踏んでいません。もし僕の意見を最終意見にしようものなら、暴動、内戦が起きますよ(笑)。ところが以前、大阪の最終決定になっていた知事、市長時代の僕の意見と、今の一民間人としての僕の意見の中身はほとんど変わりません。それでも今は、僕の意見が大阪の最終意見にならないし、そんなことしちゃいけない。プロセス不足で民主的な重みがないからです。

 これまで内閣法制局の意見が内閣のそして国の最終意見のようになっていたのなら、それは政治家がだらしなかっただけです。政治家に内閣法制局のメンバーときちんと議論できる能力がなかったからでしょう。また内閣法制局を政治的におさえる力がなかったからでしょう。こちらの方が異常であり、憲法、法律の仕組みから逸脱した非立憲だと思います。内閣法制局の法律的な能力がいくら高くても、組織のあり方、メンバーの選ばれ方、負わされる責任の重さから考えて、彼ら彼女らの判断を国の最終判断にしてはいけない。これが立憲的な思考だと思います。

 木村さんも経験されたかと思いますが、役所が設ける審議会って重みがないものが多いですよね。それは審議会メンバーの能力が低いからではありません。みんな、著名なインテリたちですから。でも現実の審議会は、役所がすでにほぼまとめ上げた案について、言いっ放しのコメントをするものが多いですね。そして役所がその声をまとめながら、役所の案に反映していく。審議会委員のメンバー間で意見が割れた場合にも、役人が間に入って調整します。委員同士で意見をすり合わせることのほうが珍しいんじゃないかな。

 あまりにも非現実的な意見を言う委員がいる場合には、その人を説得して意見を取り下げてもらったりするのも役人。現実的な責任を負わない審議会はだいたいこういうものです。

 ある人の意見が周囲を納得させるのは、責任を負っている重みがあるからです。その責任とは多くの事例を扱うことで理想とのギャップに悩みながら、困難な現実的課題を解決するための判断を繰り返さなければならないのです。そのような判断だからこそ、無責任な言いっ放しの意見にならず、周囲が納得することに繫がる。それが本当に正しいかはわかりませんが、周囲は正しいものとして扱ってくれます。

 こう考えると専門家会議とか特定課題についての諮問機関というのは、やっぱり助言機関の域を出ないのかな、と感じます。国会審議における公聴人制度の充実も、できる限りのことをやるべきだと思いますが、ひとりの公聴人がその場で言いっ放す意見を役所や国会議員、ましてや世間がどれだけ納得して受け入れるか。

 名称はともかく、やはり選挙を通じて国の代表となっている内閣が人選し、もちろんその過程でこれまた選挙を通じて国民を代表する国会が徹底的にチェックし、そして非常勤的なものではなく、常設的に多くの事例を扱い、理想論でない現実というものに悩みながら判断する機関の憲法判断だからこそ、最高権力機関である内閣や国会がそれに従い、多くの国民も国の最終判断としても受け入れるんじゃないかなと思います。その判断が絶対的に正しいかどうかはわかりませんが、まさに立憲的な考え方です。