ハンガリーの経済学者、ヤーノシュ・コルナイは、人々に必要な物資が行き渡らないのは、中央集権的な「指令経済」の責任であるとし、ソ連などの共産主義国家の経済の在り方を「不足型経済」と呼んだ。全く妥当な意見だろう。この「不足型経済」はやがて限界を迎えて、ソ連は崩壊し、中国も「改革開放」路線という形で資本主義経済に「復帰」した。

 英オックスフォード大学のフェロー(教員)であり、また英BBC放送の筆頭経済記者だったリンダ・ユーは、近著『偉大な経済学者たち』(2018)で、現在の中国とマルクスの関係について解説している。ユーは、マルクスが市場経済を取り入れた今の中国共産党を批判するだろうとした。他方で、中国が市場経済を導入することで、貧困や経済格差を解消したのならば、マルクスはそのことを評価しただろうとも指摘している。

 都市の中での富裕層と貧困層の経済格差、そして農村部と都市の経済格差は中国だけではなく、国際的にもしばしば問題視されてきた。ただしこの経済格差自体は、まだ数値としては大きいものの、近年では縮小するトレンドに入ったと指摘する専門家もいる。

 他方で「絶対的貧困」とも呼べる人たちが農村部を中心に膨大に存在していたが、「改革開放路線」という中国的な資本主義化によって急速に減少した。おそらくこの農村部の貧困解消は、都市部への労働者の流入とその生活水準の向上によるものが大きいだろう。またリーマン・ショック以降に加速した内陸部への公共投資の拡大が地方経済の底上げに役立ったことからも、貧困と格差の縮小に貢献したのではないだろうか。

 だが、これらはマルクスの指摘とは異なり、現在の資本主義経済を基本的に採用している国々の発展パターンと極めて似ている。

 むしろ、マルクスの予言も分析も間違っていた可能性を示唆している。では、マルクスの分析は今日では全く意義がないものだろうか。必ずしもそうだとは言い切れない。特に、「搾取」とは異なるマルクスの分析にも注目すべきである。

 マルクスの有名な著書『経済学批判要綱』(1857-58)に、「時間の経済、全ての経済は結局そこに解消される」という有名な言葉がある。この言葉については、経済学者の杉原四郎(1920-2009)による以下の解釈が参考になる。

 「こうした主張は、人間生活にとって最も本源的な資源として時間があるということ、労働時間がその時間の基底的部分を構成するということ、そして生活時間から労働時間をさしひいたのこりの自由時間によって人間の能力の多面的な開発が可能になること、したがって労働時間の短縮が人間にとって最も重要な課題とならざるをえないこと、このような認識をまってはじめて成立することができる」(『経済原論Ⅰ』)。
ロンドンにあるカール・マルクスの墓(ゲッティイメージズ)
ロンドンにあるカール・マルクスの墓(ゲッティイメージズ)
 人間の労働が、本来は自分の本質を実現する生命活動でもあるにもかかわらず、ワーカホリック(仕事中毒)や過重労働などで自分の生命さえも危機に陥ることが、今の日本でも大きな問題になっている。労働者は自分の時間を自由に使うことができず、社会から「疎外」されている。マルクスの分析はこの時間の経済論としては再考すべき現代的意義があるだろう。

 ただし、マルクスの現代的意義をこの「自由」の観点から考察すると、実はマルクスの貢献がかなり相対化され、事実上無視しても差し支えなくなる。マルクスは、資本家と労働者の間できちんとした雇用契約がなければ、そもそも「市場」などは存在しないと考えていた。この観点は、マルクスだけではなく、何人かの経済学者たちが共有している観点でもある。例えば、辻村江太郎は以下のように書いている。