中田光信(日本製鉄元徴用工裁判を支援する会関西事務局員)

「若い時、日本製鉄で仕事した経験は、それが苦しいものであれ、楽しいものであれ、私の人生の一部であり、人生に大きな影響を及ぼしました。ですから、私はその時期、汗を流しながら一所懸命に仕事をした代価を必ず認めてほしいです。日本製鉄は、法とか外交協定のような政治的な決定の後ろに隠れずに、堂々と前に出て、この問題について、責任をとってください」

「私が日本製鉄と日本政府に要求しているのは、戦争中に血と汗で儲けた労働の代価を返してほしいということです。私は道義的な同情を受けたいわけではありません。当然受けとるべき労働の代価を要求しているのです。戦争が終わってすでに65年になりました。もう90歳になるから、あとどれぐらい生きるかわかりません。真の韓日関係の発展のため、日本製鉄会社が何をすべきか真剣に悩んで、被害者との対話に出るべき時だと考えます」

 これは1997年に日鉄(現新日鐵住金)大阪工場に強制動員させられた元徴用工の呂運澤(ヨ・ウンテク)さんと申千洙(シン・チョンス)さんが、大阪地裁に提訴してから15年後の2012年、当時新日鉄会長だった三村明夫氏(現日本商工会議所会頭)と同社社長、宗岡正二氏(現代表取締役会長)へ出した手紙です。呂さんと申さんは高齢のために体力が衰え日本を訪れることはできませんでしたが、恐らく新日鉄のお2人もこの手紙を読まれたことと思います。

 提訴当時、元徴用工の彼らの口癖は「会社のために尽くした元社員である私たちに、なぜ会社はこんなひどい仕打ちができるのか」という嘆きでした。

 2人は「大阪工場で2年間働けば技術が習得でき、韓国に戻って技術者として就職できる」という募集広告に応じて大阪に連れて来られました。ところが、大阪では鉄格子のはまった寮に収監され、自由も与えらない状況だったといいます。このとき初めて「だまされた」と思ったそうです。

 「賃金を全額支給すれば浪費する」という理由で月2、3円程度の小遣いを支給されただけで残りは強制的に貯金させられました。そして十分な食事も与えられないまま技術習得とはほど遠い過酷な労働に従事させられました。警察官がしばしば立ち寄ることもあり、「逃げてもすぐに捕まえられる」と言って彼らを監視していたといいます。朝鮮半島でも徴兵制が実施されることになり、申千洙さんは徴兵検査を受け、その後徴兵が決まったために寮から逃げようとしたところ、舎監による凄まじいリンチを受けて後遺症が残ったといいます。

 そして1944年、彼らは突然「君たちは徴用された」「お前たちの体はもはやお前たちのものではなく自由はない」と言われました。日鉄は軍需工場の指定を受けたので、そこで働く従業員は募集で来た朝鮮人労働者も含めて全員「現地徴用」されたのです。
2018年10月30日、判決が言い渡される前に韓国最高裁前で集会を開く原告側の支援者ら。前列中央は原告の李春植さん(著者撮影)
2018年10月30日、判決が言い渡される前に韓国最高裁前で集会を開く原告側の支援者ら。前列中央は原告の李春植さん(著者撮影)
 2人が求めた「代価」には、あまりの苦しさから逃げ出した時に受けたリンチの痛みや、「当時のお金で牛6頭が買えた。あのお金が貰えていれば私の人生は変わっていた」という言葉に込められた思いが詰まっています。日本での強制労働の記憶が、彼らの心の傷(トラウマ)となって人生を送ったことを私たちは忘れてはならないと思います。