前述の三笠宮のように皇位継承順位が比較的低い皇族とは異なり、秋篠宮はいずれ天皇になる可能性があり、また大嘗祭の執行者として当事者になる可能性もあるため、その影響力が大きい。公に発言するときにはより配慮が必要だったのではないか。

 また今回、宮内庁の山本信一郎長官に自らの意思を述べたが「話を聞く耳を持たなかった」という発言も、秋篠宮はしている。これは山本長官への批判でもあり、皇族が公務員をある種「個人攻撃」するということにもなっている。

 この発言を受け、今後は山本長官への批判が世間から出てくることもあろう。その意味でも、やはり発言にはより配慮が必要だったのではないか。

 他方で、これは宮内庁が秋篠宮の意見を聞きながらも、うまく説得、納得させられなかったことを意味している。秋篠宮に不満を募らせてしまった宮内庁の問題も考える必要があるだろう。

 そして、こうした問題を助言したり、高所から解決したりする人物が今、宮内庁にいないのではないか。宮内庁と秋篠宮の意思疎通がうまくいっていないことは、皇嗣のあり方をどうするのかという問題とも直結してくる。その修復は象徴天皇制の今後にとって、大きな課題となろう。

 それでも、秋篠宮が今回のような発言をした意図も、理解することはできる。2004年5月の皇太子徳仁親王による「人格否定発言」、2016年8月の明仁天皇による退位の意向を示した「おことば」など、平成の皇室は自らの意思を表明する機会がたびたびあった。

 こうした発言は、「人間」「家庭」としての皇室を求めたゆえになされたと思われる。「象徴天皇制」という制度の中で、かなりの制約を負わされていることに対して、その問題を提起したのである。「跡継ぎ」を産まなければならないというプレッシャーに自らの妻が置かれていることを述べた皇太子、高齢となってもさまざま公務を継続させていく必要性があることを述べた天皇、いずれも「人間」と天皇や皇族の立場の矛盾を公に表明したと思われる。
2016年9月、職員へあいさつする山本信一郎宮内庁長官。右は風岡典之前長官(代表撮影)
2016年9月、職員へあいさつする山本信一郎宮内庁長官。右は風岡典之前長官(代表撮影)
 私たち国民は人としての権利(人権)を有するものの、天皇や皇族には必ずしも同様の権利はなく、制限されている。日本国憲法の第1章(天皇)とそれ以降の章(基本的人権など)は矛盾があるのである。その点がこれまでほとんど考慮されず、天皇や皇族にある種の「犠牲」を強いてきた。それを当事者から問題視したのである。

 秋篠宮の今回の発言も、その延長であるように思われる。大嘗祭は宗教性を含む、皇室の行事である。その意味では「家庭」の行事ともいえるものであろう。そうした行事が巨大化し、国家的なものとして執り行われる。それは天皇制の権威が強化される可能性、そしてそれが利用される危険性も考えられる。だからこそ、そうならないように、皇室の「家庭」としての行事であると提起したとも言える。

 今回の秋篠宮の発言は、大嘗祭への国費投入の可否のみならず、天皇や皇族の存在をも考えるきっかけになったのではないだろうか。