おそらく多くの人々にとって、犯罪に対してカメラが果たしている役割が防犯なのか監視なのかはたいした問題ではない。なぜならどちらの場合であれ、事件を解決し犯人を逮捕するうえで効果があるならばそれで十分であり、そんな便利なカメラを使わない理由などどこにもないからだ。

 そう人々は考えるからこそ、近年さまざまな場所へのカメラ導入は世論に後押しされる形で推奨される。しかしながら、そもそもカメラを公共の場に設置することの正当な理由を根元から考えようとするならば、カメラが果たす防犯と監視の役割をめぐる違いは重要な問いとして立ち現れてくる。

 問われているのは、防犯なのか監視なのか。この視点から最近の電車内へのカメラ導入の動きを考えてみると、防犯と監視がそこで混同されている様が確認できる。

 そもそもカメラ設置で目指されているのは「犯罪が起こらない安全な車内」なのか「痴漢犯の確実な逮捕」なのか。無自覚にその両者が同時に追い求められるとき、カメラの設置と導入は無原則に肯定され、どこまでも進んでいく。

 実のところ、この事態は最近の電車内でのカメラ設置によって初めて生じたものではない。むしろ、ここ20年あまりの日本社会における監視強化を推し進めてきた強力なロジックを、そこに鮮明に見て取ることができる。 

 これまで監視社会化の趨勢(すうせい)に対して、学者・運動家たちはプライバシー重視の立場から異議を唱えてきた。だが近年、監視批判派の旗色は悪い。ネット上の議論などでは、プライバシー擁護派に対して「そもそも電車内という公共の場にプライバシーなどない!」とか「隠しておきたい疾(やま)しいことがあるから、プライバシーを振りかざすのでは?」といった乱暴な物言いが繰り広げられがちだ。

 近代社会におけるプライバシー権の思想的根拠を正鵠(せいこく)に理解するならば、こうした印象論や邪推とは異なるまっとうな論争も可能だろう。だが現実には、監視が強化される昨今の趨勢への疑問や批判を主張するとたちどころに「きっと隠したい=疾しく感じる秘密があるからプライバシーを盾に監視に反対しているに違いない」とのレッテル貼りがなされてしまう。
※画像はイメージです(GettyImages)
※画像はイメージです(GettyImages)
 逆に言えば、自分に疾しいことが何一つなければ、そもそも監視に反対する理由などない。そのように自らを納得させることで、多くの人々は日常生活のさまざまな場面への監視の広がりを容認しているように見て取れる。

 だが、ここに大きな落とし穴がある。過去の監視の歴史を振り返ればすぐ分かるように、社会において何が隠すべきことで、人が何に対して疾しく感じるのかは、実のところ個人が好き勝手に決められる代物ではない。たとえ当人にとってごく当たり前の私的な事柄であっても、時の権力がそれを「けしからん」と見なせば、途端に個人にとって隠すべき、疾しい秘密になってしまう。