それらすべては、信販会社やマーケティング企業をはじめとする各種のビジネスにとって貴重なデータとして収集・保管・分析・活用される。しばらく前からビッグデータというはやり言葉が至るところで喧伝されているのは、それがもたらすこれらビジネスチャンスの高まりを背景としてのことである。

 駅構内や電車内といった物理的空間におけるカメラ導入の高まりは、当然ながらこうしたネット空間でのデータ監視と連動している。例えば、あなたがスマホを手に自らの位置情報を発信しながら目的地へと向かうとき、ネットに残された履歴と駅や車内の至るところに設置された防犯カメラが捉えた映像を照らし合わせれば、あなたという一個人の行動はほぼ完璧なかたちでデータとして第三者に知られてしまう。

 いつ、どこからどこへ、誰と一緒に、何をしながら空間を移動したのか。今後、電車という公共交通機関を用いることで、そうした個人情報を曝し出しながら日々の生活を送ることを私たちは強いられるだろう。

 そもそも「移動する自由」は、「居住、移転の自由」と同様に個人に与えられた基本的な権利であるはずだ。どこへ行って、何をするのかは文字通り個人のプライバシーであり、他人から干渉される事柄ではない。

 幸いなことに、物理的な移動を強権的に制限されることは今の日本社会ではまれであろう。だが、ネット空間と現実世界とが地続きとなったSNS時代を迎え、今後、ビッグデータの必要性と有効性が喧伝されるなか、人々がたどる移動の経路と履歴はデータとしてどこまでも追跡され捕捉される事態を免れないだろう。

 2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催に向けて、電車利用をはじめとする都市空間での人の流れ(human mobility)に対する監視が徹底されていくならば、これまで当たり前に享受されてきた「移動の自由」はどのような変貌を遂げていくのだろうか。
※画像はイメージです(GettyImages)
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 来るべき未来における「移動の自由」をめぐる技術的かつ社会的条件の変化。そこに潜む課題を「あの人たち」ではなくほかならぬ「私たち」自身の問題として考える想像力を持てたとき、日頃ごく自然に受け止めがちな公共の場に置かれた防犯カメラは、これまでとはどこか違った風景として眼前に立ち現れてくるかもしれない。