再度訪れた日本では、室町幕府の三代将軍・足利義満の寵(ちょう)を受け、京都に居を構えたという。応永27(1420)年には、宋希璟と四代将軍・義持との会見の実現に大いに貢献した。皮肉にも魏天は、被虜人としての生活や日本語の取得が役立ったということになる。魏天は幼少時は被虜人となり、不幸であったかもしれないが、晩年は恵まれており幸運な部類に属するであろう。

 被虜人は、遠く当時の琉球にも転売されたようである。14世紀の終わり頃、琉球の中山王察度は4回に渡り朝鮮に被虜人を送還している。1416年、朝鮮国王・太宗も使節を琉球に派遣して、被虜人を帰国させた。おおむね被虜人は、九州を中心にして、東は京都、南は琉球まで転売され、存在したようだ。15世紀後半の京都・建仁寺の禅居庵には、浙江省温州で被虜人になった人物が住んでいた。

 女性の被虜人の場合は、日本人男性の妻になった例もあるという。また、中には性的な労働に従事させられた者もあったと推測されている。

 以上のように、朝鮮や中国から連行された被虜人は、西日本を中心にして繰り返し転売されることになった。しかし、14世紀の終わり頃になると、朝鮮は日本との通交を積極的に推し進め、被虜人の送還を歓迎した。朝鮮との通交を希望する者は、被虜人の送還を進めた。この動きは15世紀初頭まで続くが、朝鮮の倭寇懐柔策により被虜人の供給が激減したため、以後はあまり見られなくなったという。

 倭寇が朝鮮・中国で猛威を振るい、人々を略奪したことを述べてきたが、逆のパターンがあったことにも注意すべきである。朝鮮では報復措置として、日本人を捕らえて奴隷とし、使役あるいは売買したことが知られている。

 そもそも李氏朝鮮には、法律上で奴隷の売買が許されており、世襲的な奴婢(ぬひ)が存在していた。14世紀の終わり頃、奴婢の売買は盛んに行われていたが、その価値は牛馬よりも劣っていたといわれている。日本よりも悲惨な現状にあった。しかし、次第に奴婢の売買は制限が加えられるようになり、15世紀の終わり頃には事実上の禁止となったという。

 『李朝世宗実録』によると、1429年に朴瑞生(ぼくずいせい)が日本通信使として来日し、帰国後に倭寇に拉致された被虜人のこと、そして日本における人身売買について報告を行っている。その中で注目すべきは、日本人が朝鮮人や中国人を奴隷として売買していたことに加え、朝鮮人も捕らえた日本人を奴隷として売買していた事実が報告されていることだ。

 朝鮮人が日本人奴隷を使役していた事実は、1408年の『李朝太宗実録』で確認することができる。この記録によると、日本国王・足利義持が派遣した船の中に、当時、朝鮮人のもとで労働に従事していた日本人女性が逃げ込んだという。この日本人女性が、いかなる経緯で朝鮮人に捕らえられたのかは明らかでない。これにより、朝鮮人のもとで日本人奴隷が存在していたことが明白になった。
倭寇図巻(東京大学史料編纂所提供の模写)
倭寇図巻(東京大学史料編纂所提供の模写)
 その後の顛末(てんまつ)はどうなったのであろうか。朝鮮サイドでは府使を遣わし、日本の船に逃亡した日本人女性を返還するよう求めた。奴隷は主人の所有物なので、ある意味で当然の要求といえるかもしれない。しかし、日本サイドの使者は、「日本に私賤はいない」と突っぱねて返還を拒否した。そのような経緯を踏まえて、太宗は日本人奴隷の売買を禁止する法令を発布したのである。

 一説によると、当時の朝鮮における奴隷の割合は、相当に高かったという。太宗がいかなる理由で、日本人奴隷の売買を禁止したのかは不明であるが、仮に朝鮮で普通の人の売買を禁止しているならば、日本の「私賤はいない」という主張に従って、措置をしたのかもしれない。日本人女性が奴隷でないならば、返還するのが筋だからである。

 このように、15世紀の日本において人身売買が国の枠を超えて行われたことは、非常に興味深いところである。次回以降は、さらに人身売買や奴隷の詳細を明らかにしていこう。