井沢元彦(作家)

 西郷隆盛は、征韓論、つまり日本が武力で朝鮮国を開国させ思い通りに操るという、明治以降の日本が採った方針の先駆者であるとともに、その一刻も早い実現を目指す性急な征韓論者だった。西郷は岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らが欧米視察に出掛けている間に「留守政府」を仕切っていたが、「重要なことは実行しない」という岩倉たちとの約束を破り、いつまでも新生日本と外交関係を樹立しようとしない「無礼な」朝鮮国を屈服させるために、まず自分が大使として赴こうとした。

 これに対して帰国した岩倉は仰天し、天皇の裁可が下りる寸前でそれをストップさせ、憤激した西郷とその同調者である留守政府の江藤新平らは辞表を叩きつけて、政府を去った。これが「明治六年の政変」(1873年)である。

 以上がいわゆる「通説」であるが、私は、西郷隆盛が性急な征韓論者どころか、いきなり武力を使わずに、まず「話し合い路線」で行こうとしていたと考えている。もっとも、西郷の目的はそれだけではなく、他に重大な目的があった。

 そして、その重大な目的があったことが、「西郷は征韓論者」だという大きな誤解を生む原因だったとも考えている。その理由をこれから逐一ご説明しよう。

 このiRONNAの愛読者なら、司馬遼太郎『坂の上の雲』にも出てくる、「聯合艦隊解散之辞」をご存じの人も多いだろう。日露戦争に勝ち、聯合艦隊が解散したとき、主人公の秋山真之少佐が起草し、東郷平八郎大将が読み上げたものである。

夕焼けに浮かぶ東京・上野恩賜公園の西郷隆盛像=2018年7月撮影
 しかし、その中に次のような一節があることは今多くの日本人が忘れている。「神功皇后三韓ヲ征服シ給ヒシ以來、韓國ハ四百餘年間、我ガ統理ノ下ニアリ」。つまり、朝鮮半島は古代、応神天皇の母である神功皇后によって征服されて以来、日本の「領土」だった、ということだ。もちろん事実ではない。

 しかし、あの海軍きっての頭脳といわれた秋山少佐ですら、それが歴史的事実だと思っていたということだ。明治のダークサイドといってもいい部分だが、幕末欧米列強の植民地にされることを恐れた日本人は、天皇を神聖化しその下に一致団結することによって、見事富国強兵を成し遂げた。

 しかし、その神聖化のために、歴史的事実と必ずしも一致しない神話も「すべて真実」ということになってしまったのである。これを、そのまま読んだということはもちろん東郷平八郎も、いやそれどころか、岩倉も大久保も木戸もすべてこの神話を事実だと思っており、だからこそすべて征韓論者であった。