ちなみに当時の半島国家は朝鮮国であるのに、なぜ征朝論と言わずに征韓論と言ったのかは、これが理由だ。実際、西郷を政府から追い出した後に、大久保は江華島事件を起こし、朝鮮国を武力で叩く方針を実行している。

 しかし、西郷はそうではなかった。最も肝胆相照らした勝海舟と同じく日本、中国、朝鮮が固く団結して欧米列強と闘うべきだと考えていた、そのように私は理解している。その場合、最も障害となるのは中華思想(華夷秩序)と呼ばれるもので、中国の支配者「皇帝」が周辺国家の首長を「国王」に任命し、中国が「主人」周辺国家が「家来」という形で秩序を維持していくというものだ。

 つまり、中国は自国と対等な国家を認めないのである。それでも中国は強大であったので、朝鮮も琉球も国王の座に甘んじた、しかし日本は中国と対等であると考え、皇帝に対して天皇という称号を用いて一歩も譲らなかった。

 そして明治になって、天皇中心の国家に生まれ変わった日本は、朝鮮に対して天皇の名をもって外交関係樹立を申し入れた。しかし朝鮮は断固拒否した。中国皇帝しか使えないはずの「皇」の字を使った「ニセモノ」からの国書など受け取れないという態度である。

 日本は逆に、国書を受け取れないとは何事か、「無礼千万」ではないか、と世論が激高した。この辺りはよく知られていることなのだが、私に言わせれば、肝心のことが多くの人に忘れられている。

 実は、明治6年に日本が粘り強く交渉を続けていた中国との対等な条約「日清修好条規」が、留守政府の外務卿で佐賀出身の副島種臣の尽力によって発効しているのだ。つまり、中国は有史以来、初めて「天皇」を認めたのである。

 「親分」の中国が天皇を認めた以上、次は「子分」の番だから、朝鮮使節の派遣というのは強硬姿勢でも何でもなく順番通りのプログラムなのである。ただ、政府内には朝鮮の頑(かたく)なさを危ぶむ声もあったので、西郷はそうした連中を説得するために「もし自分が殺されるようなことがあったなら、その時は武力に訴えればいいではないか」と強硬派を説得したのである。
東京・芝にあった薩摩藩上屋敷跡、西郷隆盛・勝海舟会見の地の碑。台座には2人のレリーフもある=2018年6月
東京・芝にあった薩摩藩上屋敷跡、西郷隆盛・勝海舟会見の地の碑。台座には2人のレリーフもある=2018年6月
 裏を返せば、説得できると考えていた、と私は思う。それに、万一説得できなかった場合はそれでもいい、そのようにも考えていた。それが冒頭述べた「重大な目的」でる。

 西郷は、あまりにも有名な僧月照との「心中」事件以来、死処(しにどころ)を求めていたのだ。自分だけ生き残ったのは申し訳ない、死ぬべき時が来たら死ぬということだ。