この「死処説」は、残念ながら私のオリジナルではないが、まさに明治6年ごろに西郷は体調の不良に悩まされていた。このまま畳の上で死ぬのは嫌だ、と考えた西郷は、交渉が不調に終わった場合は殺されるか、あるいは殺されなくても恥辱を受けたといって朝鮮国で自害をすれば、お国のためになると考えていたということだ。

 一方、帰国した大久保らは、留守政府があまりに見事な仕事をしているのに危機感を持った。このままでは薩長から土佐、肥前(佐賀)に政権を奪われてしまう。特に長州は、井上馨の大汚職を佐賀出身の司法卿江藤新平に追及されれば、天皇の信頼を全く失ってしまうところまで追いつめられていた。

 そこで陰謀に長じた大久保や岩倉は長州の支持を取り付け、西郷の渡韓を何とか阻止しようとした。なぜなら、これは閣議決定事項で、あとは天皇の裁可を頂くだけになっており、逆に天皇の裁可が下りなければ、天皇による「内閣不信任」と同じで、参議は全員辞職しなければならなくなる。

 おそらく大久保や岩倉は「西郷ファン」の天皇を「西郷は死ぬつもりですぞ」と説得し、裁可をさせなかったのだろう。それは全くのウソではないので天皇も騙された、ということだ。

 西郷および留守政府の面々は憤激し、野に下った。まさに大久保らの思うつぼで、元司法卿江藤新平に反乱を起こさせ、死刑に処することもできた。逆に井上馨はまんまと逃げおおせた。そのこともあって西郷の怒りは頂点に達し、西南戦争へとつながったのだろう。

 ただし、西郷は勝つつもりはなかった。勝つつもりがあれば、熊本城を攻めたりはしない。真っすぐ東京を目指すはずだ。そうすれば各地で不平士族が合流し大変な勢力となったはずである。

 しかし、それではせっかく築き上げた明治政府を潰してしまうことになる。だからこそ、わざと負ける道を選んだ。諫死(かんし)である。これで死処も得られる。自分たちの死をもって、中央で驕り高ぶっている人々を反省させようとしたのだと思う。

 だが、彼らは反省などしなかった。むしろ欧米列強と同じやり方で朝鮮を屈服させる道を選んだ。そして、それを成功させるために、国民に絶大な人気のあった西郷を利用しようとした。つまり、「あの西郷もわれわれと同じ征韓論者だったのだ」と国民に思い込ませようとしたのだ。
岩倉具視が肖像画の五百円札(ゲッティイメージズ)
岩倉具視が肖像画の五百円札(ゲッティイメージズ)
 では、明治六年の政変が起こったとき、「西郷が征韓論を唱えたからだ」と最初に言い出したのは一体誰か? 私の知る限り、それは岩倉具視である。