このように、西郷が主張したのは、実は「征韓論」ではなく「遣韓論」もしくは「朝鮮使節派遣論」だったと考える方が、史料などからは自然である。そして、西郷は自分の主張通りに正式に朝鮮使節に任命される。

 ところが、洋行から帰ってきた岩倉具視、大久保利通らが、西郷の朝鮮派遣に反対した。大久保はかつての盟友である西郷と決定的な対立関係になる。そこでも議決自体は、西郷の進退を賭けた主張の通りになった。

 しかし、最終的には岩倉が天皇に上奏する時、反対論を個人的に主張してどんでん返しが起き、西郷の使節派遣論は潰されることになった。

 まず、そもそも西郷が朝鮮問題に熱心になった背景とは何なのか。一般論としては、それが解決しなければならない当面の重要外交課題であったことは間違いない。だが、西郷が懸念する外交問題は朝鮮だけにとどまらず、ロシア対策が念頭にあったということは特筆すべきであろう。

 19世紀初頭より、樺太や千島をめぐって断続的に日露間の紛争が発生していた。ロシアは清国への影響を強めると同時に樺太へもその力を及ぼし始めた。西郷が、ロシアのみならず、アメリカとの対比で、イギリス、ドイツなどの列強の形勢に注目していたことは、アメリカ滞在中の大久保利通に宛てた書簡の一節からもうかがい知ることができる。
大久保利通像(ゲッティイメージズ)
大久保利通像(ゲッティイメージズ)
 「独と魯との間には、弥(いよいよ)隔意を生じ候趣(そうろうおもむき)、追々(おいおい)申し来(きた)り」と、ドイツとロシアをめぐる国際関係にも強い関心を寄せている。つまり、朝鮮問題の解決を急いだ西郷の念頭には、迫りくるロシアの脅威に、いかに対抗するべきかという切実な課題があったことは疑う余地はない。
 
 また、歴史作家の海音寺潮五郎氏は、西郷が朝鮮派遣にこだわった理由を勝海舟の影響があったのではないかという。勝はかねてから、日本と中国、朝鮮が同盟を結んで、列強の侵略に対抗すべきであるという説を持っていた。江戸無血開城の交渉を持ち出すまでもなく、西郷と勝は肝胆相照らす仲だった上に、明治政府で西郷は陸軍、勝は海軍の重鎮である。その二人が話し合わないはずがない。

 筆者も同様、日本、中国、朝鮮の三国が連携するという「三国連携論」が、西郷の頭の中にはあったのだろうと考える。