家近良樹(歴史学者、大阪経済大特別招聘教授)

 西郷隆盛の朝鮮への使節としての派遣が阻止される上で、最大の役割を演じたのは、言うまでもなく大久保利通であった。むろん、事の重大性からいって、大久保がおいそれと自ら手を挙げて、こうした役割を積極的に果たそうとしたわけではなかった。あくまで、きっかけを作ったのは伊藤博文ら長州藩出身の政府要人であった。

 伊藤らから執拗に参議への就任を要請され、苦渋の末に承諾を与えてから以後の大久保は、文字通り決死の覚悟をもって西郷の朝鮮使節を葬(ほうむ)る活動に従事する。彼が、この問題に生命を賭けたことは、息子に宛てた「遺書」の内容によって容易にうかがわれる。

 さて、続いて大問題となるのが、大久保が西郷の派遣を断固阻止しようとした理由である。これに関しては、公的な(表向きの)理由と、私的な(個人的)理由の双方が挙げられる。

 前者は、やはりなんと言っても、彼が欧米諸国を模擬した近代国家を建設しようとしたことに関係した。大久保は、これより前の1年半余、日本を不在にした。言うまでもなく、欧米に渡航した「岩倉使節団」への参加のためである。

 そして、この過程で、絶望感に時に激しく襲われながらも、欧米諸国をモデルとする国家建設のプランを抱いて日本に帰ってくる。これに次いで、参議に就任した後の明治6(1873)年10月14日の閣議の席で、真正面から西郷の朝鮮への即時派遣に異議を唱えた。

 残念ながら、この日、大久保が閣議の席でどのような主張をしたのかは不明である。具体的な発言内容を記した史料が一切存在しないからである。ただ、この日の大久保の発言内容は、ほぼ推測しうる。

 先述の「遺書」とこの頃に記されたと思われる彼の「意見書」が存在するからである。そこから浮かび上がってくるのは、大久保が西郷の派遣が朝鮮との戦争に直結することを危惧し、かつ財政、内政、外交上の困難をもたらすので、反対しただろうというものだ。

 大久保の主張で特に留意すべき点が二つある。第一点は、西郷の即時遣使は「深謀遠慮」に欠けるとしたことだ。大久保によれば、国家を運営し、かつ国土と国民を守るためには、「時勢」を考慮し、そのうえ国家や国民の将来を見据えて決断を重ねなければならないものであった。すなわち、そうした点で、西郷の派遣はあまりにも「深謀遠慮」を欠く性急な決定の上になされたと批判したのである。
大久保利通像(ゲッティイメージズ)
大久保利通像(ゲッティイメージズ)
 第二点は、朝鮮が、慶応2(1866)年と明治4(1871)年に、それぞれ軍事挑発を仕掛けてきたフランスとアメリカ両国の艦隊と戦い、撃退することに成功した例をもって、西郷の派遣は同国との開戦に繋がりかねないとみたことだ。

 さらに大久保は、朝鮮と戦端を開くようになった場合、極東地域に領土的野心を持つロシアに「漁夫の利」を得られかねないとも考えた。その上で大久保は、もし朝鮮との戦争になれば、膨大な額にのぼる軍事費が深刻な財政危機を招来し、その後士族反乱や民衆騒擾といった困難な国内状況を招きかねないと冷静に判断し、西郷の派遣をあくまで阻止しようとしたのである。