次いで、大久保が西郷の即時派遣に反対せざるを得なかった私的な理由に筆を及ぼすことにしたい。そして、ここに大久保の政治家としての本質も、彼が本来有した陰湿な性分も、ともに如実にあらわれる。

 大久保が西郷の派遣に反対した私的な理由(むろん、それは半ば公的な理由でもあったが)の最たるものとしては、彼が欧米流の近代国家を建設する上で、大きな障害となると判断した勢力を至急排除しようとしたことが挙げられる。

 排除の対象となったのは、征韓を希求する西郷とその配下であった。具体的には、廃藩置県後も鹿児島にあって、政府の推し進めようとする近代化路線に抵抗し続けていた島津家武士、および東京で征韓の実行を求める軍人、兵士であった。

 それと、岩倉使節団派遣中の留守政府内にあって台頭してきた土佐(高知)、肥前(佐賀)出身の政府高官であった。板垣退助や江藤新平、後藤象二郎といった面々がそれに該当した。

 彼らは筆頭参議であった西郷の承認の下、それぞれが主導して、銘々が信じる近代化政策を推進していた。そして、長州派を含む大久保らの目にはおそらく、それは薩長出身者が主流の座を占めてきた新政府のこれまでのあり方を改変しようとする、真にけしからぬ動向と映ったに違いない。

 そういう意味では、大久保や伊藤らは、早急に土佐、肥前出身の新任参議らの政府内からの追放と、自分たちの主導権の奪回(回復)を図らねばならなかったのである。そして、その対象には、新たに参議職に就くことになった肥前出身の副島種臣も含まれたと考えられる。

 副島は元来、大久保にとっては貴重な囲碁仲間であったが、当時西郷の朝鮮への派遣に積極的な賛意を表するようになっていたからである。また、大久保にとって、外務卿でもあった副島の主導する外交路線は古臭く、到底近代国家のそれにふさわしいものではなかった。
西郷隆盛像(ゲッティイメージズ)
西郷隆盛像(ゲッティイメージズ)
 以上、大久保が西郷の派遣を阻止するに至った背景をごく簡単に振り返ったが、もし彼がこうした行動に出なかったら、近代日本の進路は、われわれの知るそれとは大きく異なるものとなった可能性は大であろう。

 そういう点で、大久保個人の果たした役割は非常に大きなものがあった。朝鮮使節を志願し、そのことで政局に大混乱をもたらした西郷とともに、維新が「西郷と大久保の時代」でもあったと、しばしば見なされるのは、こうした歴史的経緯があったからなのである。