この成瀬家本では、信長の本陣にいる3人の男の背に六芒星はなく、濃緑の地に赤く「十六葉菊」が描かれているが、これは信長が朝廷から許された菊紋というにすぎない。

 これでは、「一番古いオリジナルの絵がそうなら、信長が陰陽師を使ったという推測は無理じゃないか」と言われそうだが、これがそうでもないのだ。

 成瀬家本の図屏風には、家康本陣に六芒星の男が2人いる。その装束は大阪城天守閣本の信長本陣の3人とまったく同じだが、その手には槍や薙刀を持つという違いがある。これは陰陽師としての職掌からはまったく外れている。

 この六芒星組が大阪城天守閣本では信長本陣に移動し、手には何も持たない陰陽師本来のいでたちに描き換えられたのは、なぜか。

 もう少しこの大阪城天守閣本を観察してみよう。

 と、さらにひとつ違うところがあった。第五扇目(左から2番目)の上、ここには羽柴秀吉の部隊が布陣している。金のひょうたんの馬印が高く掲げられ、秀吉も最前線を凝視中だ。

 問題なのはその前方に白く細長く湾曲した川が描きこまれている点だ。設楽原では、武田軍と織田・徳川連合軍の間に連吾川が南へ流れていたが、それと平行して、連合軍の布陣している丘の背後(西側)にも平行して流れる大宮川(宮川)という川がある。
長篠合戦図屏風(大阪城天守閣蔵)
金のひょうたんの馬印を掲げた秀吉(左上)=長篠合戦図屏風(大阪城天守閣蔵)
 成瀬家本では、この大宮川が秀吉隊のところには流れは無く、家康のすぐ後ろから流れが始まっているのだ。

 大阪城天守閣本がもっと上流から描き始めているのは、こちらの方が正しい。(ただし実際の大宮川は信長本陣よりも西なので、少しおかしいのだが)

 この川の加筆は、成瀬家本の成立から間もなくそれを模写することとなった大阪城天守閣本の制作者が、現地の地形や合戦の様子について詳しい者から修正を指示された、ということなのだろう。細部にこだわってよりリアルを追求していこうというのは、いつの時代もオタクを突き動かす本能的な欲求なのだ(笑)。

 ということは、六芒星メンズたちの移動も、信長の本陣に居るのが正しい、と考えてのことだったのではないか。

 そもそも、この六芒星を背負った男たちは戦場で何をしていたのか。陰陽師だからといって、怨敵調伏の祈祷をしたり、式神を使って敵を討とうとしていたと考えるのは早計だ。彼らは、天気予報士だったのである。