古谷経衡(文筆家)

 日本ほど「潔癖社会」と形容するのにふさわしい社会はない。道路や住宅街にはゴミ一つ落ちていない。繁華街の吐瀉(としゃ)物は夜が明けるまでに全てがなかったかのごとく徹底的に拭き取られている。

 秒刻みで運行される電車(特に新幹線などの高速鉄道)では、ものの1分とか2分とかで、散らかった座席が完全にリネンされている。消臭、除菌がことあるごとに周知奨励され、ウエットティッシュと温水洗浄便座の常備(完備)がもはや当たり前になった。そして頼まれてもいないのに、率先してゴミ拾いをすることが、国民第一の美徳のように崇(あが)めたてられている。

 中国からマイクロバスでディズニーランドに寄った帰りであろう団体観光客が、千葉県浦安市内の何の変哲もない住宅地を熱心にスマートフォンで撮影していた。私はこの光景が余りにも気になったので、片言の英語で話しかけてみると、「街が本当にきれいなので珍しいから撮影した」と返答がくる。

 アメリカにも芝生文化があり、欧州には石造り住宅の美観がある。世界的に見てわが国は電線地中化が驚くほど遅れているにもかかわらず、それ以外の街の美観と公衆の衛生に対して、ここまで敏感、いや過敏なほどに「潔癖」を求めるのは恐らく先進国で日本ぐらいであろう。アジア圏ではなおさらダントツである。

 しかし「潔癖」は大きな代償を伴っていることを指摘しなければならない。行きすぎた潔癖は、人々から生きる活力を奪い、人間本来が持っている「汚らしさ」「醜さ」や「暗黒」の部分を希釈化する。

 光り輝く部分のみをことさら奨励することにより、陰の部分はそれに反比例するかのようにますます濃くなる。社会が清潔に、潔癖になることと引き換えに、私たちが負う代償とは、端的に言えば生命力の喪失、動物的闘争心の喪失、そして多様性の喪失と悪しき均質化である。
※写真はイメージ(ゲッティイメージズ)
※写真はイメージ(ゲッティイメージズ)
 人間が生きていくには食物の摂取と排泄がセットになっているのと同様、生命とは本質的に輝きと汚らしさや醜さが共生した存在である。どんなにかわいらしい猫でも、どんなに高貴に見える血統書付きの犬でも、ひとたび皮をむけば毛玉を吐瀉し、ところ構わず排便をする(わが家の猫がそうだ)。しかしその、「汚らしさ」こそ生命躍動の象徴なのである。

 宮崎駿原作の漫画版『風の谷のナウシカ』曰く、「清浄と汚濁こそ生命である」に帰結する。潔癖さ「のみ」を追いかけることによって、いつしかこの国の社会は、動物的闘争心や多様性を失っていった。それに代わって、生存を脅かさない、怒りや闘争心を去勢された安全で、当たり障りのない文化やモードがもてはやされるようになった。

 車のデザインは極端な丸みを帯び、自衛隊の求人ポスターには「萌え絵」が使用されるようになった。アイドルには過度な処女性が求められ、違反した者は自主的に髪の毛をバリカンで丸刈りにし、カメラの前で謝罪した。

 生命の清濁をあわせ持った根源的原動力が失われ、つられて健全な競争や闘争心がなくなり、安全と「棘(とげ)のない」清廉潔白な社会は、うわべだけを瀟洒(しょうしゃ)な生活で取り繕(つくろ)って中身が全くない「意識高い系」の連中の繁茂と奇(く)しくも一致する。