『日本国紀』は現代版『日本書紀』たらんとする気概を持って書かれた。その気概にふさわしい重要な指摘がいくつかある。『日本書紀』が編さんされた目的の一つに、日本が朝鮮半島を支配した証拠や根拠となる史実を論証するという狙いがあった。『日本国紀』もまた、三韓時代の朝鮮半島と日本との関係について述べている。

 『日本国紀』の22~24ページには、日本が朝鮮半島南部に兵を進め、任那(みまな)や百済(くだら)を服属させていたことが書かれている。とんでもないことに、学校の歴史教科書ではこの辺の話を意図的に外しており、教えない。

 「広開土王碑(こうかいどおうのひ)」によると、日本は391年、百済(くだら)を服属させた。新羅(しらぎ)と百済は王子を日本に人質に差し出していた。日本は任那や百済を足場として、約200年以上、朝鮮半島へ大きな影響力を行使する。

 663年の白村江の戦いの敗北によって、日本は朝鮮半島の支配権を奪われた。それまでは、われわれが想像する以上に、日本は朝鮮半島と密接な関係にあったのだ。『日本国紀』には「同じ一族が住んでいた可能性もある」(22ページ)と書かれ、その密接ぶりが強調されている。

 『日本書紀』の雄略紀や欽明紀では、日本が任那(みまな)をはじめ、伽耶(かや)を統治していたことが記されている。ここで言う伽耶は朝鮮南部の広域を指す呼び名である。

 中国の史書『宋書(そうしょ)』の中の「夷蛮伝(いばんでん)」では、倭の五王の朝鮮半島への進出について記述されている。中国によって付けられた「倭国」という名称が、辺境の野蛮な弱小国家というイメージを強く与えるが、日本は中国も一目置く、強国であった。
広開土王(好太王)碑=2008年9月、中国・集安(黒田勝弘撮影)
広開土王(好太王)碑=2008年9月、中国・集安(黒田勝弘撮影)
 学校の歴史授業では「渡来人が朝鮮半島から日本にやって来て、高度な文明を伝えた」と習う。我々はこのことから、何となく古代において「朝鮮=高」、「日本=低」というイメージを持っている。しかし、このイメージは完全に間違っていることを『日本国紀』は教える。

 古墳時代(4~7世紀)における前方後円墳などの陵墓の建設も、渡来人から伝わった文化という俗説があるが、実はそうではない。仁徳天皇陵をはじめとする前方後円墳は日本の文化で、それが逆に朝鮮半島へ伝わった。朝鮮半島西南部の全羅南道・全羅北道に十数基の前方後円墳が分布している。これらの古墳には、日本伝来の埴輪(はにわ)や銅器も埋蔵されていたことが確認されている。今日の調査で、古墳の建設時期が明らかになり、日本から朝鮮に伝わったことが判明している。