『日本国紀』にも「百済があった地では、日本式の前方後円墳に近い古墳がいくつも発見されている」(23ページ)とある。百済だけでなく、任那があった地にも、これらの前方後円墳が発見されており、日本の朝鮮南部統治の証拠と見ることができる。

 日本の歴史教育では、こうした日本の朝鮮統治の実態をほとんど教えない。『日本国紀』はそこにスバリ斬り込んでいる。素晴らしいことだ。『日本国紀』を読めば、日本が古代ー中世において、後進的であったという通俗イメージを一度、リセットしなければならないことがよく分かるだろう。

 このように「歴史の隠蔽(いんぺい)」に斬り込む百田氏の姿勢を、良心的な日本人は正当に評価し、『日本国紀』を支持する最大の理由としている。

 しかし、上記のテーマに関して、『日本国紀』には、以下のような少々、違和感のある表記もある。

そこで私は大胆な仮説を述べたい。百済は日本の植民地に近い存在であった、と。(『日本国紀』46ページ)

 百済は日本の「植民地」というよりもむしろ、「日本の一部」だった。日本と百済の関係は例えるならば、かつてのイギリスとアイルランドとの関係に近い。かつて、イギリスにとって、インドは植民地だった。しかし、アイルランドは植民地ではなく、「イギリスの一部」であった。これと同じことが日本と百済との関係についても言える。

 この関係は1910年の日韓併合以降の状況にも当てはまる。当時の朝鮮は「日本の一部」であり、国際法上も日本の連邦を構成していた地域の一つという位置付けである。この視点は、昨今の徴用工訴訟で、韓国大法院が判決文で「日本の植民地統治が不法であった」と指摘した奇怪な論理に対抗するために、欠かせない視点である。

 日本の朝鮮統治はその実態からして、韓国や北朝鮮が主張する「不法な植民地支配」などでは決してない。極貧状態であった現地に、日本は道路・鉄道・学校・病院・下水道などを建設した。特に、ソウルでは、劣悪な衛生状態でさまざまな感染症がまん延していたため、日本は病院の建設など医療体制の整備に最も力を入れた。日本にとっては支出が超過するばかりで、何のもうけにもならなかったのである。