実際に、百田氏も「日本は欧米諸国のような収奪型の植民地政策を行うつもりはなく」(『日本国紀』326ページ)と書いている。それならば、やはり百済に関しても「植民地」という表現ではなく、「日本の一部」と表現した方が実態に即したものとなるはずだ。

 ただし、百田氏も『日本国紀』で、百済を「日本の一部」という文脈で書いているので、方向性自体は問題ないように思う。何度も強調されているように、日本にとって「百済は重要な意味を持っていた」のであり、白村江の戦いで「大和朝廷が百済のために総力を挙げて戦った」(『日本国紀』46ページ)という記述からも、百済が「日本の一部だった」ということを結果的に教えることになっている。

 百済の防衛は日本にとって、遠い外国の話ではなく、事実上の自国の領土を侵犯されたという当事者意識と、その国辱に対する憤激が日本を突き動かし、当時の天皇(斉明天皇)自らが外征する「総力戦」となったのだ。

 白村江の戦いで、唐・新羅連合軍の大軍に敗北し、日本は朝鮮半島の支配権を奪われ、古来より続いていた半島との接合性を失った。しかし、それとともに日本列島の領域枠の意識が強く共有されて、国や民族のカタチが明確になった。ここに、日本という国家意識の原形が誕生する。『日本国紀』は日本国の理念がどのように生まれたのかということについて、明確に示している。

 平成の終わりに、日本人が自らの歴史を振り返るため、多くの人々が『日本国紀』を手に取った。これは非常に意義のあることだ。我々の歴史を隠蔽し、捏造(ねつぞう)しようとする得体の知れない勢力が、日本の中でものさばってきた。『日本国紀』はそのような勢力と戦う真の日本人にとって、重要な指標になる。
育鵬社版の教科書
育鵬社版の教科書
 百田氏は『日本書紀』をはじめとする史書の数々に触れながら、「日本」という国号の由来を説明し、以下のように述べている。


「太陽が昇る国」---これほど美しく堂々とした国名があろうか。しかもその名を千三百年も大切に使い続けてきた。それが私たちの国なのである。(『日本国紀』55ページ)