渡邊大門(歴史学者)

 前回の倭寇による人の略奪を踏まえて、日本国内に目を向けてみよう。戦国時代は、人身売買も含めて、人の略奪が盛んに行われた時代だった。それは、まさしく「生きるため」だったといっても過言ではない。それは、天候不順による食糧不足とも連動していたと言える。

 現代は便利な時代であり、暑いと言えば冷房をつければよいし、寒いと言えば暖房をつければよい。食料もビニールハウスどころか、今や工場で作るありさまである。最近の自然災害はひどい状況だが、鉄筋コンクリートの建物は、昔の木造建築に比べると非常に頑強である。むろん戦国時代の家は、粗末な木造だった。

 また、今は道を歩いていれば、スーパーやコンビニがあるので、お金さえあれば食料を手に入れることができる。病気になっても、病院に駆け込めば何とかなることも多い。すべてが便利であるし、さまざまな点で不便な戦国時代とは比較にならない。

 戦国時代に目を転じると、主力となる農業や漁業は自然が相手の仕事であり、ひとたび自然災害に見舞われると、農業用の機械があるわけでもないので、農地の復旧には多大な時間を要した。おまけに天候不順に陥ると、たちまち作物の収穫量はガタ落ちし、人々は飢えに苦しむありさまである。

 保存食があるとはいえ、今のように冷凍食品があったわけではない。ひどい状況が続けば、やがて人々の体力を奪い、病気になることもあった。病気になると特効薬があったわけでもないので、疫病の蔓延(まんえん)は深刻な事態を招いた。

 寛喜2(1230)年から翌年まで人々を苦しめた寛喜の大飢饉(ききん)では、食糧難が深刻になったので、子供を売ってでも生活の費用を捻出する必要が生じた。とにかく、戦国時代の人々は生きるために必死だったのである。

 村で生活する人々はときに戦争に参加し、戦場で相手から略奪した金目のものや食料などを自分のものにした。戦場で人を捕らえた場合も、自分のものになり、捕らえた人を売ることもあった。つまり、戦争に行くこと自体が、自らの生死をかけた戦いであり、略奪が生きるために必要だったのである。

 こうした戦場における人の略奪は、必然的に人身売買の温床となった。以下、戦場における人の略奪を中心にして、さまざまな事例を取り上げることにしたい。最初は、武田氏の事例である。
JR甲府駅前の武田信玄像
JR甲府駅前の武田信玄像
 甲斐国の武田氏や小山田氏をはじめ、当時の生活や世相を記録した史料として、『妙法寺記』(『勝山記』とも)という史料がある。そこには、数多くの人の略奪の記録が残されている。

 天文5(1536)年、相模国青根郷(相模原区緑区青根)に武田氏の軍勢が攻め込み、「足弱」を100人ばかり獲っていったという。この前年、武田信虎は今川氏輝、北条氏綱の連合軍と甲斐・駿河の国境付近で戦い(万沢口合戦)、敗北を喫していた。武田氏は両者に対して、大きな恨みを抱いていたといえる。

 史料中の「足弱」とは、「足が弱い人」「歩行能力が弱い人」という意味がある。転じて、女性、老人、子供を意味するようになった(足軽を意味することもある)。つまり、武田氏の軍勢は戦争のどさくさに紛れ、戦利品として「足弱」を強奪して国へ戻ったということになろう。時代を問わず、女性、老人、子供は常に「弱者」であった。