たとえば、武田軍が信濃国に侵攻した際、大門峠(長野県茅野市)を越えた付近で、兵たちに7日間の休暇が与えられた。しかし、兵たちは休むことなく、鬨(とき)の声を上げて付近の民家を襲撃した。目的は略奪行為であり、田畠の作物すら奪い取った。わずか3日間で村々から略奪を終えると、まだ余力が残っていたのか、翌日からはさらに遠方の村々まで出張って行って、略奪を繰り返すありさまだったのである。

 それだけではなく、戦争が終結し、敵の城を落しても乱取りだけは続けられた。それが、兵たちの「褒美」になった。永禄9(1566)年、小幡業盛の籠る上野国箕輪城(群馬県高崎市)が信玄により落されると、雑兵は箕輪城を本拠として、敵兵を次々と捕らえ、乱取りを行ったのである。彼らにとっては、戦いよりも乱取りが本番であったと言えるかもしれない。

 現代では、国家からの強制的な動員、あるいはほとばしるような愛国心に突き動かされ、人々は戦争に行くのであろう。しかし、戦国時代の戦争は収入を得る手段の一つであり、言うなれば「出稼ぎ」のようなものだったのかもしれない。動員する戦国大名にとっても、彼らを従軍させる理由やモチベーションが必要である。それが乱取りであり、彼らの貴重な収入源となった。まさしく生きるための戦争だったのである。

 こうして人や物資を略奪すると、雑兵たちの生活は豊かになった。『甲陽軍鑑』には、その姿が次のように描かれている(現代語訳)。

分捕った刀・脇差・目貫・こうがい・はばきを外して(売って)、豊かになった。馬・女を奪い取り、これで豊かになったので、国々の民百姓までみんな富貴になり安泰になったので、国で騒ぎが起こることがなかった。

 われわれの常識では、戦国大名が産業や農業振興に腐心し、それにより国が豊かになると考えていた節がある。むろん、それも事実として正しいのであるが、実際には他国へ侵攻して戦争を仕掛け、それにより国が富むという現実を認識すべきだろう。戦争に行く人々には、愛国心や忠誠心はほとんどなかったのかもしれない。

 こうした乱取りという現象は、何も武田氏の専売特許ではない。次に、肥後国の大名・相良氏の事例を取り上げてみよう。相良氏は遠江国佐野郡相良荘の出身であるが、鎌倉時代に肥後国人吉荘に本拠を移し、以後大名化を遂げた。
※写真はイメージ(ゲッティイメージズ)
※写真はイメージ(ゲッティイメージズ)
 乱取りの様子は『八代日記』に描かれている(天文~永禄年間)。その記述によると、戦場においては、牛馬とともに人々も略奪の対象となった。ときに夜襲を仕掛けて、人を奪い去った様子がうかがえる。また、数千人が生け捕りにされており、その規模の大きさには、目を見張るものがある。

 同じことは、伊達政宗が南奥羽で展開した戦いにおいても確認することができる。その状況を伝えているのが、『天正日記』である(天正16・17年)。

 『天正日記』によると、戦場において数多くの人々が生け捕りにされ、敵兵の首や鼻を切り取ったという。敵兵を倒した場合、その証として首を切り取った。首の数によって、与えられる恩賞が決まったからである。

 鼻が切り取られた理由は、首を腰まわりにぶら下げていると、重いうえに身動きが取りにくい。そこで、代わりに鼻を削(そ)ぎ落として、敵を討ち果たした証拠にしたのである。鼻から上唇まで切り取ると、髭(ひげ)によって男であると分かる。