橋場日月(歴史研究家、歴史作家)

 天正3(1575)年8月12日、織田信長は岐阜城を発して越前国に向かった。朝倉義景滅亡後、いったんは織田家の支配下にあった越前は一向一揆によって奪われており、それを再び自分の手に取り戻すための作戦が発動されたのだ。

 15日、大良越(だいらごえ、現在の福井県南条郡河野あたり。敦賀湾に近く、海沿いで越前北部に通じる口)から越前府中(現在の福井県越前市のうち)へ柴田勝家以下、羽柴秀吉・明智光秀ら先鋒(せんぽう)3万人が殺到した。

 「以外(もってのほか)風雨候」と『信長公記』は記しており、信長が大風雨を冒して進撃命令を下したことが分かる。風が吹き付けようが、バケツをひっくり返したような雨が降ろうが、お構いなし。いかにも信長らしい激烈ぶりではないか。

 いや、激烈というのは少し違うかもしれない。陸路を征(い)く柴田勝家たちはまだマシだった。同じ日、信長は水軍にも出動を命じていたのである。

「海上を働く人数、(中略)数百艘(そう)催し」(同書)

 数百艘の軍船が、越前府中の沿岸に兵をあげて、焼き討ちを行った。

 陸の兵たちはまだしも、水軍にとって大風雨は命の危険さえあるハイリスクな天候条件だ。その中でも出動を命じた信長は、かつて村木砦の戦いで自ら「以外(もってのほか)大風」と記された強風をついて伊勢湾を強行渡海したように、部下たちにも命がけの働きを要求したのだ。

 村木砦の戦いでの信長の兵数は1000人程度と考えられるが、今回は数百艘の軍船でおそらく1万人程度。10倍の兵数である。それだけに事故が起こる確率も高い。長篠の戦いで天候を味方につけた信長は、気象は常に自分の味方であり、大風雨も自分の軍に仇を成すことはない、と楽観視していたのだろうか。
新清洲駅前に並ぶ織田信長像=愛知県名古屋市(中田真弥撮影)
新清洲駅前に並ぶ織田信長像=愛知県名古屋市(中田真弥撮影)
 ここで気になるのが、大風雨の中で出動した織田水軍の兵たちが、越前府中の沿岸に上陸すると焼き討ちを行った、という事実である。

「所々(ところどころ)に烟(けむり)を挙(あ)げられ候」(同書)とあるから、焼き討ちは行われただけではなく実際に成功し、各所で炎と煙が上がっている。ということは、この時点では大風雨、少なくとも雨はすでに止み、焼き討ちが可能な天候に変わっていたはずだ。

 大風雨の中、水軍を無事目的地に到達させ、折よく雨もあがって焼き討ちも成果を上げる。こんな都合の良い話があるだろうか。だが、本当なのだから仕方がない。あるいは、ここでもまた「六芒星(ろくぼうせい)メンズ」が信長に「この大風雨は間もなく収まります」とアドバイスしたかもしれない。

 気象データを読み尽くし、天候を操る大蛇・龍の妖しいパワーにますますのめり込んでいく信長の姿が浮かび上がってくるようだ。