その場所は、上京武者小路。現在の上京区武者小路町あたりで、前年に義昭が公家の権大納言・徳大寺公維(とくだいじきんふさ)の屋敷地だったものを収公し、信長に与えたものだった。

 信長はこの土地に築地(瓦屋根付きの土塀)をめぐらし、門までは造ったのだが、そこで義昭と決裂したために破棄され、ついに日の目を見ることはなかった。

 この武者小路屋敷について考えてみたい。

 場所は前述の通り、現在の烏丸今出川の交差点のすぐ南西。御所からは戌亥=北西方向きだ。この方位は「天門(てんもん)」と呼ばれ、鬼門同様に怨霊や魔物が出入りする方角と考えられている。信長との関係が悪化していた義昭は、親切ごかしにこの土地を与えて災いが信長に降りかかるよう仕組んだのだろう。

 この呪詛(じゅそ)のおかげか、この元亀3(1572)年12月には甲斐の武田信玄が遠江国(現在の静岡県西部)へ兵を動かし、徳川家康と信長からの援軍(佐久間信盛ほか)との連合軍を三方原で完膚なきまでにたたき潰している。だが、その後の事態は義昭が思うようには進まない。越前国(現在の福井県北部)の朝倉義景は近江から兵を退(ひ)き、信玄は発病によって進撃を停止してしまったのだ。

 こうなると、義昭にとって武者小路屋敷の地を信長に与えたことはもろ刃の剣と化す。戌亥=天門は災いを招く方角であると同時に、それを乗り越える、つまり鎮めることができれば末代まで家運が隆盛する上々大吉に転じる方角でもあるのだ。

「いかん、このままでは信長の運気がますます上昇してしまうではないか」

 慌てた義昭がとった対応が、翌年3月7日の工事現場の破壊だった。

 しかし、工事現場を取り壊してはみたものの、信玄は病死し、義昭は京を追われてしまう。そして、安土築城と並行し信長は改めて京に新屋敷を築き始めたのである。その場所がまた武者小路だったかというと、そうではない。信長は破棄された武者小路の屋敷地を放置し、今度は二条の関白・二条晴良の屋敷(現在の烏丸御池交差点南西)を接収して新たな屋敷地とした。

 二条屋敷は「龍躍池」という名物の小池があり「小池の御所」と呼ばれたが、戦火に焼かれ晴良はその一隅にささやかな仮屋を建てて住んでいた。信長はその晴良に報恩寺(御所の東北、一条)を屋敷として提供し、明智光秀にその建築工事を奉行させ、二条を京における織田家の本拠地として整備したのだ。
現二条城に復元された二条御所(信長二条新屋敷)の石垣=筆者提供
現二条城に復元された二条御所(信長二条新屋敷)の石垣=筆者提供
 ここで地図を眺めてみると、面白いことに気付く。内裏から見て義昭の二条城の延長線上に信長の二条新屋敷の地があり、その隣には西福寺がある。西福寺は浄土宗の寺院で、この場合内裏の裏鬼門である未申(ひつじさる=坤)を鎮める位置取りだ。後の江戸城に対する、浄土宗の芝増上寺のような関係と考えればよいだろう。

 義昭の二条城もその内側にあって御所の裏鬼門を固めていたのだが、その建造を進めたのは信長だった。その信長が、義昭追放後の内裏の裏鬼門に、二条新屋敷を築く。当然、それは「これからは義昭に代わって自分が天皇を守る」という宣言に他ならない。

 ただ、彼の言う「守る」の意味が、奉仕者としてのものなのか、保護者としてのものなのか、という重大な問題が残る。それについては、姿を現しつつある安土城によって答えを見いだすことができるだろう。