小和田哲男(静岡大名誉教授)

 改元は、古代から基本的に天皇の権限に属していた。ところが、鎌倉時代の後半から幕府が干渉するようになり、室町時代にはさらに幕府のトップである将軍の力が強くなった。そのため、江戸時代も年号は将軍が内定し、天皇がそれを認可する形をとっていたのである。

 将軍の力が強いときは、それで問題はなかったが、将軍の力が弱体化したときは問題が生じている。ここでは、室町時代末期、戦国時代に発生した改元にまつわるトラブルについて見ておきたい。

 足利15代将軍となった足利義昭は、周知のように、織田信長に擁立され、将軍の位に就くことができた。13代将軍だった足利義輝が松永久秀らによって殺された後、弟だった義昭が各地を流浪した末、信長の援助によって上洛(じょうらく)を果たし、永禄(えいろく)11(1568)年10月18日、征夷大将軍に任命されている。

 はじめのうち、義昭も自分を将軍にしてくれた信長に感謝の念を抱いていたが、やがて翌12年正月16日、信長が「室町幕府殿中御掟(でんちゅうおんおきて)」を制定した辺りから、信長と義昭の不和が表面化し始めている。義昭が信長の傀儡(かいらい)将軍となりつつあることに不満を持ち始めたからである。

 そして信長は、さらに翌元亀元(1570)年正月23日、五カ条の「条々」を義昭に認めさせ、将軍義昭の行動に縛りを掛けている。例えば、その第一条では、諸国へ御内書を遣わすときには、信長の書状を添えることが決められている。

 しかし、注目されるのは、信長によって将軍義昭の行動に縛りが掛けられたにもかかわらず、改元の権限は義昭が握っていた点である。具体例を挙げておこう。元亀3(1572)年3月29日、改元について、幕府と信長に勅命があった。ところが、このとき、義昭が改元の費用を出さなかったため、改元は実行されなかったのである。

 このことについて、信長は同年9月、義昭を批判して「異見十七カ条」を義昭につきつけているが、そこには、

元亀の年号不吉に候間(そうろうあいだ)、改元然(しか)るべきの由、天下の沙汰に付いて申上候。禁中にも御催の由候処 に、聊(いささか)の雑用仰付けられず、今に遅々候。是は天下の御為に候処、御油断然るべからず存候事(『信長公記』)。

織田一族発祥の地に立つ織田信長像=福井県越前町織田
   と記されている。これだけでは、信長がなぜ元亀という年号を不吉だと考えたのか分からないが、信長は永禄から元亀への改元に反対の意向を持っていたことが分かる。

 おそらく、そうした意向を朝廷にも伝え、朝廷から正親町天皇の勅令という形で幕府に改元を促したものと思われる。