ところが、このときは義昭が改元にかかわる費用を出し渋ったため、改元はされず、そのまま元亀の年号が使われているのである。信長が費用を出せば改元できたのではないかと考えたくなるが、当時はそうもいかなかったらしい。

 信長がなぜ元亀の年号を不吉と判断したのか、義昭がそれにもかかわらず元亀の年号に固執したのかは分からない。だが、少なくともこのことによって、改元の権限が実力者信長ではなく、傀儡である将軍義昭の手に握られていたことが伺われる。

 こうしたこともあり、当然のことながら、信長と義昭の2人の間に不協和音が増幅されることになり、ついに決定的な時を迎える。

 義昭は信長の傀儡将軍であることを潔しとせず、ついに密かに武田信玄や朝倉義景、浅井長政らと手を結び、「反信長包囲網」を築き上げた。元亀3(1572)年10月には、信玄が甲斐から駿河・遠江に出陣し、12月22日の遠江三方原の戦いで信長の同盟者、徳川家康を破っている。

 この信玄の破竹の進軍ぶりに義昭は強気になり、とうとう翌年3月、信長と戦うことになった。しかし、その頼みの信玄が4月12日、病気で急逝してしまい、義昭は宇治の槇島城に籠城したものの、7月18日、信長に降伏しているのである。

 義昭は追放される形で、この後毛利輝元に保護され、備後の鞆(とも)に居住することとなる。征夷大将軍の職を解任されたわけではないが、この槇島城退去の日をもって室町幕府は滅亡という形となる。

宇治川右岸から槇島城があった
京都府宇治市槇島町方向を望む。
槇島城があった場所は特定されていない
=2007年8月(撮影・加藤孝規)
 そこからの信長の動きは素早い。それだけ、永禄から元亀へ改元されたときのことを根に持っていたことを物語る。

 実は、永禄から元亀へ改元されるとき、元亀と天正の二つが候補に挙がり、義昭が元亀を推し、信長が天正を推した。結局、将軍義昭の推す元亀に決まるといういきさつがあり、信長はずっとそのことに不満を持っていたのである。信長としては、義昭を追放したことで、ようやく改元の権限を握ることができたわけである。

 元亀から天正への改元は、義昭追放後わずか10日で、7月28日のことであった。天正という元号は、その意味で信長がかかわった唯一の元号ということになる。