問題は、揮毫された墨痕が乾ききらぬ元号墨書の固定であった。書の固定は表具するのが一般的であるが、生乾きの紙では難しい。物がモノだけにアイロンをかけるわけにもいかない。ましてや、接着剤は使い方によって紙が傷む。とはいえ、何よりも超スピードで額を官房長官室へ運び、速やかに記者会見に間に合わせなければならない。

 後々の保存のことを考えれば、元号の表面を、上からガラスなどで押さえつけて固定するのが書を傷めないベストの方法である。そこで長官番記者の方に内々に意見を求めたところ、記者会見場はテレビカメラのライトの光が四方八方から照射してしまうので、額の表面が反射するものは困るとの注文がついた。早速、河東先生に相談し、書を傷つけない程度の簡易固定を考案していただいた。

 発表された元号の紙面の大きさであるが、実物がどのくらいの大きさだったかはあまり知られていない。縦41・5センチ×横29・5センチ、ほぼA3の紙を縦にした大きさである。

 余談であるが、河東先生によれば、元号を書く紙は古来、公文書でよく使われる奉書紙と決めたものの、特製の紙は紙が厚く墨を良く吸うので擦れが出やすい。芸術作品であればともかくも、元号に擦れは許されない。そこで墨の濃さ、筆の墨量、運筆の速さなどを随分とご研究されたという。本番では一気に4枚「平成」と書き、4枚目を発表用とし、他はその場で廃棄されたという。

 この額は後日、本表具され竹下総理の手元に、その後国立公文書館に寄贈された。

 そもそも「Xデー」の始まりは、前年1988(昭和63)年9月19日、陛下が大量出血され、ご病床に就かれたことであった。当時、小渕長官のお供で東北地方に出張中であったが、陛下が欠かさずご覧になられていた大相撲をキャンセルされたという第一報に、嫌な胸騒ぎを覚えたことを思い出す。

 陛下は、その前年の87(昭和62)年9月、宮内庁病院で手術を受けられていたため、この時の御不例は、天皇のご年齢も考慮し、内閣として万一に備え、諸準備を極秘裏に急ピッチで進めることになった。

首相官邸の庭で竹下登首相(左)と
談笑する小渕恵三官房長官=1987年12月撮影
 小渕長官は、石原信雄内閣官房副長官、古川貞二郎内閣官房首席内閣参事官、的場順三内政審議室長、藤森昭一宮内庁長官、後藤田正晴前官房長官、佐々淳行内閣安全保障室長とよく連絡を取られていた。竹下総理の女房役として、「Xデー」という歴史の重圧を前に、秘めたる壮心と覚悟がみなぎっていたように思う。

 大正から昭和への御代替わりでは、世紀の大誤報と揶揄された「光文事件」が発生したことから、事務方への指示として特に言われていたのは第一に、元号の事前漏洩防止だった。的場内政審議室長の一元管理とし、極秘裏に作業が進められた。私も揮毫者も直前まで「平成」の2文字については知らされていなかった。

 二つ目は、新元号が国民の理想に沿う、国民に親しみのあるもの、受け入れやすいものであるようにということだった。新元号を国民がどのように迎え入れてくれるか、「庶民内閣」竹下総理の右腕であった小渕長官としては当然の思いであったろう。これには「昭和」の元号が当初、国民の評判がいまひとつであったという史実が背景にあった。

 そして、その日がやってきた。89年1月7日午前6時33分、昭和天皇が皇居・吹上御所で崩御されたのである。宝算87。