「嘉永」は、「嘉(よろこ)ばしく、永遠に」というニュアンスであるし、「安政」も「安定した政治」と解される。「万延」も「万のように永遠に」など、「平和で安定した政治」という意味合いのものばかりである。

 ところが、「元治」は違う。「元」も「治」も元号ではよく使われる漢字ではあるが、これを組み合わせると、「元(はじま)りの政治」となり、新政府を宣言するメッセージが現れるのである。

 この元号は、実は第2候補であった。本当はもっとメッセージ性の強い元号になるはずだったのだ。それは「令徳」である。この元号の衝撃度は、お分かりだろうか。レ点を付けて読めば、「徳川に命令する」となり、これからは朝廷が幕府よりも上位の世の中となる、ということを露骨に世間に宣言している。

 江戸時代、改元手続きの主導は事実上幕府にあったが、この元号を主導したのは朝廷であった。1862年勅使関東下向によって文久の幕政改革が進み、その後1863年、将軍・諸大名が上洛(じょうらく)した。

 幕府は安政の大獄の失政を謝罪した上で孝明天皇に忠誠を誓い、天皇・公家に対する武家側の儀礼が朝廷を上位として改善された。改元に関しても、幕府側の露骨な介入がはばかられたのだ。

 1864年、甲子革令に基づく改元を行うとき、朝廷では「令徳」と「元治」が候補に挙がり、「令徳」が第1候補だとして、関白から幕府に内談があった。
二条城二の丸御殿で再現された大政奉還のようす=2017年10月、京都市中京区(寺口純平撮影)
二条城二の丸御殿で再現された大政奉還のようす=2017年10月、京都市中京区(寺口純平撮影)
 老中らは、「徳川に命令する」意味に解されるとして難色を示したが、老中からの申し立てはできかねる、と松平慶永に関白らへのあっせんを求め、第2候補の「元治」に決定したのであった。江戸幕府が相当苦慮していたことがうかがえよう。江戸幕府にしてみれば、「元治」もメッセージ性を含んではいるが、「令徳」だけは避けたかったのである。

 こうして元号の歴史を考察してみると、「文久」と「元治」の間に、大きな政治的な変化があったことが分かる。1863年に将軍諸大名が上洛して以降、武士の間では「皇国帝都」という言葉が流行していた。つまり、日本は天皇を戴く国であり、帝のいるところが首都であるという考え方が広まっていたのである。

 近代天皇制国家の出発は、必ずしも明治維新ではないのではないか。元号の歴史は、そのことを暗示している。

■こうして元号は「時代を映す鏡」になった
■67年前、日本は「元号」を奪われる最大の危機にあった
■新元号をめぐる「タブーなき議論」こそ平成と昭和の差である