西尾克洋(相撲ライター)
最後まで、こんなに振り回されることになるとは思わなかった。
稀勢の里、引退。
考えてみると、稀勢の里という力士に私たちは良くも悪くも振り回され続けてきた。勝つときは白鵬だろうが朝青龍だろうが圧倒する。だが、負けるときは碧山や栃煌山にさえ何もできずに天を仰ぐ。素晴らしい可能性を見せたかと思えば、絶望的な現実に突き落とす。こんなことを、毎場所繰り返すのだ。
強い力士は、強くなればなるほど応援の声は少なくなる。強さは畏敬の対象になるせいか、また望まなくても結果が出るせいか、たたえられることはあっても勝利を切望されなくなる。判官びいきというのはそういうところから生まれる感情ではないかと思う。
逆に弱い力士は、可能性を見いだせなくなれば見放される。好きでも嫌いでもなく、無関心になってしまうからだ。悪さが良さをかき消してしまえば、力士に対する興味は失われていく。マイナスの大きさは、力士にとって致命的なのである。
だが稀勢の里は、強さと弱さを交互に見せながら歓声を集めた稀有(けう)な力士だ。
いつもどこかで稀勢の里が気になり、良いときは共に喜び、悪いときは共に悲しむ。もう応援するまいと思いながら指と指の隙間から翌日の相撲をつい見てしまう。なぜかそういうときに限って目の覚めるような相撲で勝つ。そしてまた、稀勢の里の応援に戻っていく。
応援したくなるのは、少し力が足りないからこそだという話を聞いたことがある。応援の力で足りない部分を埋めたくなる、という心理が働くらしい。そして、そういう存在を人は「アイドル」と呼ぶのである。その視点から見ると、稀勢の里はアイドルといえるのではないだろうか。

アイドルはいつも完璧を目指してステージに立つ。だが一方で、どうしても力量が及ばぬ部分が出てしまうことがある。必死で自らの役割を演じようとしているからこそ、及ばずににじみ出てしまう「ほつれ」が愛らしくてたまらない。
「完成度の高い中に見せる、生身の女の子のほつれ」こそがアイドルの魅力であると語ったのは、アイドル評論家としても名を馳せるヒップホップ・グループ「ライムスター」の宇多丸氏であるが、稀勢の里もまた「ほつれ」てしまうからこそ愛らしい力士だったと私は思う。
長らくアイドルだった稀勢の里が、強さを求めて努力し続ける。そしていつも最後には失敗してしまう。力士生活14年目の2016年まで優勝は未経験。しかし準優勝の回数は実に12回。どれだけ相撲ファンが彼に対して希望と絶望を見たかがよく分かると思う。稀勢の里は愛すべきアイドルで、彼のファンはアイドルとしての稀勢の里を愛(め)でながらも、アイドルからの卒業を願い続けた。
そして、その思いはついに報われた。
2017年初場所で初優勝を果たし、ついに稀勢の里は横綱へと昇進した。