横綱としての立場が稀勢の里を動かすところまでは良いのだが、体がついてこない。まだアイドルとしての稀勢の里だった頃は、横綱としての体を持ちながら心が伴わなかったことを思うと、皮肉なのだが、心だけで勝てるほど大相撲は甘くない。

 横綱は、強いからこそ横綱だ。立派に振る舞うことも求められるが、それは必要最低限の条件であり、プラスアルファではない。だからこそ横綱は地位が保証されているし、強さを保つためのシステムとして休場してもとがめられることはない。もちろん休場が続けば立場は悪くなるが、強行出場して成績が残せないのであれば休めるというのは、それだけ横綱にとって強さが大切だからだといえるだろう。

 土俵で強さを見せられなくなったとき、そして見る者が応援で後押ししようとしてしまったとき、その横綱は身を引くべきではないかと私は思う。そう、横綱はアイドルであってはならないのだ。

 思えば「憎らしいほど強い」とさえ評された名横綱、北の湖も晩年は大声援が後押ししていたという。だが、それを当の北の湖は自らの衰えと受け止めたという話も耳にしたことがある。衰えた大横綱に対して、かつての姿を見たいがために歓声で後押ししようという心理が働くことがあるが、これは完璧な姿しか見せられないはずの横綱の「ほつれ」を目の当たりにしたということなのだ。

 稀勢の里という希代のアイドルが去った後、角界に必要なのは彼に匹敵するような愛される力士を育てること。そして、アイドルを超えて横綱として君臨する力士を育てることだと私は思う。
 
 最初はアイドルでもいい。だが、強さを求めて鍛錬を重ね、良いドラマも悪いドラマも共有し、完璧な姿をいつも見せ続ける存在になっていく。その過程を見ているからこそ、人は横綱に対して畏敬の念を抱くことになる。

 稀勢の里は、たったの15日間ではあったが、横綱としての強さを見せることができた。そして、その15日間の陰には、声援を受けながらもそれに応えられずにもがき、苦しむ日々があった。
稀勢の里は引退会見で涙を浮かべた=2019年1月、両国国技館(福島範和撮影)
稀勢の里は引退会見で涙を浮かべた=2019年1月、両国国技館(福島範和撮影)
 こんなことならば横綱に昇進しなかった方が良かったのではないかと言う人も大勢いる。名大関として息の長い活躍をした方が良かったのではないかと言う人もいる。

 しかし私は思う。「アイドル力士」から、唯一無二の存在である「横綱」に稀勢の里はなれた。そのドキュメンタリーを多くの人と共有し、心を動かしたのだから、稀勢の里は横綱として素晴らしい土俵人生を送ったといえるだろう。

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