藤井靖(明星大心理学部准教授、臨床心理士)

 横綱稀勢の里が引退した。小学生のころから類いまれなる相撲の才能を発揮していた萩原少年は、中学卒業後に鳴戸部屋に入門、17歳9カ月で十両昇進を果たした。新入幕も貴乃花に次ぐ年少2番目の記録(18歳3カ月)と、稀勢の里はまさに「稀(まれ)な勢い」で番付を駆け上がった。

 その後も9回の三賞受賞や、三役(小結、関脇、大関)としても総じて安定した成績を収め、2016年には年間最多勝にも輝いている。何より、横綱に昇進するまでたった1日(不戦敗)しか休まなかったことは特筆すべきことだ。また、対戦成績でも横綱鶴竜には大きく勝ち越し、現役最強横綱の白鵬相手でも10勝以上挙げており、才能と努力、日ごろの鍛錬のなせる業である。

 ところが横綱に昇進してからの2年余りは、初の場所である2017年3月場所で優勝を飾ってから、まさに苦難の連続であった。横綱日馬富士との一番で痛めた左肩の影響で、決して万全とはいえない心身状態が続いたことから、本来の相撲が取れなくなってしまった。結局4回にわたる全休と途中休場を重ね、引退まで本来の輝きを放つことはなかった。

 そのような稀勢の里の姿に対して、「受けて立つ相撲を取るべし」「横綱の品位が貶(おとし)められた」「負けても土俵に上がる姿が痛々しい」「そろそろ決断を下すときだ」などと揶揄(やゆ)する声が上がった。本人にも確実にその声は届いていたことだろう。ただでさえ自分自身のコンディションが満足のいかない状態であったのにも加え、周囲からの猛烈な批判にも晒(さら)され続けたその心中は、察して余りあるものである。

 これまでの言動や態度、関係者の証言から、彼は相撲とファンに真摯(しんし)に向き合いながら「相撲道」に邁進(まいしん)してきたことがうかがえる。荒磯親方として後進の指導にあたる際にも、その姿勢は続けられていくだろう。

 しかし、彼を取り巻く環境は、一人の横綱の個性を最大限発揮できるようなものになっていただろうか。言うまでもなく、人は置かれる環境によって心身のパフォーマンスが大きく左右されるものである。
2018年11月、横綱審議委員会の定例会合に臨む北村正任委員長(右から3人目)ら=福岡市内のホテル
2018年11月、横綱審議委員会の定例会合に臨む北村正任委員長(右から3人目)ら=福岡市内のホテル
 私には、角界やそれを取り巻く環境は、伝統と格式を盾にした、思い込みと過去への執着にまみれた世界としか見受けられなかった。それが稀勢の里のパフォーマンスを著しく低下させ、けがからの回復過程に悪影響を与えたようにしか思えない。

 例えば、会社員であれば、自分の処遇に裁量を持つ上司が仕事のできない「無能者」である場合、その環境は、処理の難しいストレスフルな状況として仕事のパフォーマンスに悪影響を及ぼすことが大いにある。

 ストレス理論からすると、身近なものの死や自身の大病のような、人生の中でまれに起こる大きな出来事(ライフイベント)よりも、日常的に続く相対的に小さなストレスの原因(デイリーハッスルズ)の積み重なりが、人の心身に大きな影響を及ぼすことが知られている。