国家が責任逃れのために持ち出す「自己責任」のルールの前に、皆が目隠しをして、微小な個人の存在を顧みもしない冷酷非情な国とはわけが違う。同じことがもし日本で起きたら、政府もメディアも含め、まずは重箱の隅を突くように違法性を詮索(せんさく)するに違いない。わずかでも個人に落ち度が見つかれば、たちどころに自己責任論が登場する。フジタ社員が拘束されたあのときと同じように。

 中国ではこうした物言いを「法匪(ほうひ)」と言って蔑(さげす)む。秦(しん)の始皇帝が法家を重用したことで敷かれた非情な圧政しかり、「革命」という名の裁きが人権を蹂躙(じゅうりん)した文化大革命もまたしかり。中国にあって、法は統治の手段でしかなかった。だからこそ、儒教の説く「情」が尊ばれ、「合情合理(情理にかなう)」こそが人の道とされる。「祖流我放」はそんな正直な感情を伝えている。

 中国人は、漢字を巧みに操ることにかけて数千年の実績があるので、感心させられる表現にしばしば出会う。だが、冗談交じりに「祖流我放」とささやき合う人たちを見るにつけ、どこか、かつてとは違った印象を感じてしまう。

 つい数年前まではこうだった。まずはネットで、傷つけられた民族感情を煽る刺激的な言論が沸騰する。糸に操られたように、怒れる愛国青年たちが外資の店舗や工場、外国大使館に結集する。「出ていけ」とヤジを合唱しているうちに、誰かが石を投げつけ始め、しまいには襲撃や強奪に発展する。だが昨今、そんな姿はすっかり影を潜めた。

 中国社会で暮らしながら、ここ数年で何かが変わったと肌で感じる。

 日中間においては、かつて首相の靖国神社参拝や尖閣諸島の領有権問題で大規模なデモが起きた。だが、物見遊山の群衆が、戦時中を彷彿(ほうふつ)させる「日本製品ボイコット」のスローガンを叫びながらも、キヤノンやニコンを手に記念写真を撮っている姿が揶揄(やゆ)された。しかも、大けがを負ったのは日本車を運転していた中国人で、破壊された日系スーパーの従業員も顧客もしょせんは中国人だ。

 怒りと不満をぶちまけたものの、どこか消化しきれないものが彼らの胃の中に残っていた。事態が収束した後になって、決まって理性的な愛国を訴える声が後から追いかけたものの、過剰な熱情の前では焼け石に水だった。まるで言い訳のようにしか聞こえない知識人の発言も聞こえてきた。

 ところが今回は違う。iPhoneをファーウェイの携帯に買い替えるように呼びかける動きが起きたものの、iPhoneを使っている若者が嫌がらせを受けたという話は聞かれない。私の周辺でも、学生が平気でiPhoneを使っているし、既にファーウェイの携帯を使っている学生にしても「こっちの方が使いやすいから」とあっけらかんとしている。
2018年3月、中国深圳にある華為技術(ファーウェイ)の本社(AP=共同)
2018年3月、中国深圳にある華為技術(ファーウェイ)の本社(AP=共同)
 つまりは、愛国主義ではなく、あくまで個人に重きを置く実利主義者なのである。直情的な愛国の表現は「酷(クール)」ではなく、斜に構えた方がイケているといった感じだ。流行り言葉でも、現代中国の若者は「仏系」と形容される。「まあね」「別に」「どちらでも」を連発し、自己主張が乏しく、冷めた感覚の世代である。