そのブームに乗って、政界入りを目指す若者も多かった。それは、旧社会党や旧民社党、市民運動系だけではなく、前原氏や野田佳彦元首相ら「松下政経塾出身者」が中心の保守的な政策志向を持つ若者も少なくなかったのである。

 政界を目指す保守系の若者にとって、大きな壁になったのが「選挙」だった。日本の選挙では「地盤・看板・カバン」の三バンが重視され、それを持たない新人が政治家になるのは難しかった。また、自民党が長期政権化する中で、戦後の混乱期から高度成長期に保守政治を支えた議員たちが引退し、その後を継ぐ世襲議員が増えてきた時期だったことも、政治を志す若者にとっては困難となった。

 保守系の若者が議員になりたくても、地元選挙区には自民党現職がいるだけではなく、その後継者まで既に決まっていることが多かった。そういう若者の受け皿となったのが、細川氏が立ち上げた日本新党をはじめとする「新党ブーム」であったことは言を俟たない。

 そして、保守系新人の発掘や受け入れという点では、実は自民党と新党は水面下でつながっていた部分がある。細川氏は元々、自民党参院議員であり、その後は熊本県知事を歴任した保守系の政治家であった。その細川氏に、かつて自民党の森喜朗元首相が相談を持ち掛けたという逸話がある。

 昨年、加計学園問題でメディアに頻繁に登場した愛媛県の中村時広知事は、松山市長だった父親の縁で自民党清和会(現清和政策研究会)を通じ、当初は衆院で立候補しようとした。ところが、選挙区には世襲議員でハーバード大卒・日本銀行出身の塩崎恭久元官房長官と、同じく世襲議員の関谷勝嗣元建設相が顔をそろえ、自民党の公認が取れなかった。

 そこで、清和会幹部だった森氏が細川氏に「中村の面倒を見てやってくれ」と頼んだという。その結果、中村氏は93年に日本新党から立候補して当選した。要するに、保守系新人がどの党から立候補するかは、政策志向や思想信条の違いではなく、単に選挙区の事情だったのである。

 当時、新党から政界入りすることになった保守系議員は、自民党から離党したグループと合流した。その一方で、旧社会党や旧民社党、市民運動出身者の「リベラル派」とも同じ党として活動することになった。

自民党の二階俊博幹事長
自民党の二階俊博幹事長
 その後、「反自民」を旗印に政権交代に向けて98年に結成した民主党は、彼らを取り込むことで党勢を拡大し、憲法・安全保障という基本政策をめぐる党内対立に常に苦しみ、「寄り合い所帯」と批判され続けていくことになる。細野氏もまた、この過程で民主党に合流した保守系の若者の一人だった。

 2009年、総選挙で圧勝した民主党は悲願の政権交代を実現した。しかし、リベラル派を中心に打ち出した「子ども手当」「高校無償化」「高速道路無料化」「農家戸別所得補償制度」の「バラマキ4K」と呼ばれた社会民主主義的な政策は、そもそも細野氏ら保守派が心から望んだものではなかった。

 財政赤字が拡大する中、財源を確保できずにバラマキ4Kが次第に撤回に追い込まれ、民主党政権は財政再建路線にかじを切った。保守派の野田政権は、党内から多数の造反者を出しながらも、自民党・公明党と「三党合意」を結び、消費増税法案を成立させた。しかし、その代償として、12年の総選挙で敗北し、民主党は政権の座を追われてしまった。