今年はスポーツ界から芸能界、一般企業にいたるまで、パワハラの内部告発が相次いだ。もちろん、理不尽な指導や暴力といった圧力で弱い立場の人間を一方的に追い詰める悪質パワハラは厳しく糾弾されて然るべきだが、「加害者の弁明にももっと耳を傾けるべき」と指摘するのは、同志社大学政策学部教授の太田肇氏だ。

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 日大アメフト部の部員による悪質タックルの問題を皮切りに、レスリング、ボクシング、体操、重量挙げ……。この春以降、アマチュア・スポーツの世界でパワハラ告発の連鎖が止まらない。

 しかも、それはアマ・スポーツ界の外にも広がりを見せている。大相撲の世界では、元貴乃花親方が弟子への暴行事件の扱いをめぐって相撲協会を告発したことに関し、事実がなかったと認めるように協会側から圧力を受けたとマスコミに語った。また芸能界では、ご当地アイドルの少女が自殺した背景にパワハラなどがあったとして、所属会社が遺族から損害賠償を求め提訴された。

 さらに視野を広げるなら、近年は小学校から大学にいたるまで教師による児童、生徒、学生へのパワハラが次々と発覚し、加害者が処分を受ける事態が続いている。

 いうまでもなく人権侵害はけっして許されないし、それが不幸な結果を招いたとしたら加害者は厳しく責任を問われなければならない。また、不当な圧力や強制によって相手を従わせようという、やり方そのものが誤っているというべきだろう。

一方的な断罪に感じる理不尽さ

 しかし、パワハラや圧力の「加害者」を告発し、一方的に断罪するだけでよいのかという疑問もわく。パワハラや圧力だと指摘されたケースのなかには、指導者・教師の熱意や温情がアダになったような例もある。

 たとえば親しみを込めた話し方でも、言葉だけを取り出せば「暴言」ととられる場合があるし、スポーツの練習で危険なプレーを注意したり、気合いを入れるために大声を出したりしても、はたから見たらパワハラのように映る。大学では、このままだと卒業できない学生に、研究の課題を与えたのがハラスメントではないかと指摘された例もあった。

 指摘された側に何らかの落ち度があったことは否定できないが、問題を起こした指導者や教師のなかには熱意があって親切で、周囲の評判もよい人が少なくない。逆にいえば熱意に乏しく、最低限の指導だけをしている人や、慇懃無礼で要領だけよい人は問題を起こすこともない。そこに理不尽なものを感じてしまう。

温情や思いやりが消えた

 なかでも気の毒なのは、規則どおりの措置をとる前に、相手のためを思って注意や助言をしたことが、相手から「圧力」と受け取られるようなケースだ。

 サッカー選手の三浦知良さん(J2横浜FC)が、先日、新聞のコラムで次のように述べていた。

〈ブラジルでは暴力や体罰に頼る指導はない。ある意味、その必要性がない。なぜならダメなやつは切り捨てられるだけだから。ダメな人間を何とか引き上げ、叱ってでも矯正しようという教育的動機は薄い〉(10月12日付「日本経済新聞」より)

 ドライなブラジルと違って、わが国では切り捨てる前に選手を救ってやろうとする。それがパワハラや圧力と受け取られる場合もあるということだ。

 心配なことに、日本でも世の中がだんだんとそちらの方向に近づいているように見える。

 会社では、以前だとペナルティを与える前に注意してくれたのに、いまはいきなりペナルティを受けるようになったという声を聞く。中学校の教師は、以前は生徒が少しでもよい高校に入れるよう厳しく指導していたが、最近はそこまで指導しないと語っていた。トラブルが起きるのを恐れ、運動部の責任者になることを渋る教員が増えているともいわれる。地域でも危険な遊びをしたり、他人に迷惑をかけたりする子を見かけても、注意する大人はいなくなった。

告発された側にも弁明の機会を与えよ

「告発されたら終わり」という感覚が蔓延すると、「触らぬ神に祟りなし」と考える人が増えてくるのは当然だろう。さらに、その延長上にはもっと深刻な問題が待ち受けている。

 以前、複数の医師から次のような話を聞いたことがある。患者のためにはリスクがあっても思い切った治療を施したほうがよいケースがあるが、失敗したときや、期待するような結果がでなかったときのことを考えて控える場合があると。事が命にかかわるだけに聞き捨てならない問題だ。それでも医師の立場を考えたら、自己防衛に走るのを止めることはできないだろう。

 とくに医師と患者のように、一方だけが専門的な知識をもっている場合(「情報の非対称性」という)、かりに医師が患者の利益より自己防衛を優先しても、それを事実として認定することさえ難しい。最終的にはプロとしての良心と見識に頼らなければならないのだ。

 そして程度の差はあるにしても、監督・コーチと選手、教師と生徒、上司と部下といった関係にも同じことがいえる。「触らぬ神に……」や慇懃無礼は、やろうとすればできてしまうのである。要するに、パワハラにしても圧力にしても、相手に有無をいわせず力ずくで改めさせようとすると、思わぬ弊害をもたらす危険性があるということだ。
※写真はイメージです(GettyImages)
※写真はイメージです(GettyImages)
 もちろん、だからといってパワハラや不当な圧力を受けてもやむをえないというわけではない。被害者が泣き寝入りせず、声をあげるようになったのは確かに一歩前進である。

 一方で、加害者とされた側の弁明にも耳を傾けるべきである。マスコミも大衆受けしそうな声にすり寄ったり、都合のよいコメンテーターばかり集めて話を盛り上げたりするのではなく、立場や見解が異なる人も交えて議論を深めるよう努力するのが社会的責任の果たし方ではなかろうか。

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