橋場日月(歴史研究家、歴史作家)

 前回は安土築城開始と二条御新造築造について触れたが、ここで前年、天正3(1575)年に少し話を戻したい。

 越前で行われた、越前一向一揆の大虐殺。一揆側の死者は1万数千人、生け捕りにされ奴隷として送られた者は2万人以上に及んだ。前年の長島一向一揆は2万人以上の死者を生んだが、越前でもそれに勝るとも劣らない数の犠牲が出たのだ。

 9月、越前で戦後処理中の信長が配下の者に出した書状は「嘉例の紙子(かみこ)□(欠け)来(到来か)候」と、紙製の衣服を贈られた礼を述べたものだが、「嘉例=めでたい前例=縁起担ぎ」を喜ぶ彼の性向が現れているとともに、重要な一節も含んでいる。

 「その表の儀も本意程有るべからず候」

 宛て先不明なので「その表(その方面)」がどこなのか確定できないのだが、当時の状況から考えて大坂本願寺のことだろう。「本願寺攻めの最終的な勝利も間もなくだ」と信長の鼻息は荒い。彼はこの年の春の段階で、既に「秋に本格的な本願寺攻撃作戦を実行する」と宣言し、細川藤孝にも「大坂本願寺など、ものの数ではない」と豪語している。

 だが、長島と越前を失った本願寺は動揺していた。そして、いったん態勢を整えるための時間稼ぎを狙ってこの後、和平攻勢を掛けてくることになる。
大阪城で発掘された石山本願寺の礎石
大阪城で発掘された石山本願寺の礎石
 実は、これは信長にとってもメリットがある話だった。それについてはこの後すぐ説明していくとして、いったん話を他の方面へ転じよう。舞台は南近江の大津である。

 10月12日。3カ月前に立柱式を行った瀬田川に架かる橋が竣工(しゅんこう)。交通の要衝として、さらには観光名所として、「勢多の唐橋」は歌枕になるほど有名だったが、観応の擾乱(かんのうのじょうらん、1349~52年にかけて続いた足利政権の内紛)で焼け落ちて以来、放置されていた。そのため信長は仮の舟橋(船を何隻も並べ、その上に板を敷いて渡る)を設置させていたのだが、ちょうど前年から始めさせていた支配権内の道路・橋の整備の一環として、この橋も再建させたのだ。

 完成した橋は、幅4間(約7・3m)、長さ180間(約327m)余り。かつて朝廷によって架けられ、メンテナンスされてきた橋が信長によって再建されたということは、信長の権威がある意味で朝廷をしのいだことを意味する。それではさすがに刺激が強すぎて憚(はばか)りがある、と考えたか、信長は「天下のためというのは建前で、本音は行き来する旅人を思いやってのことだ」とオブラートにくるんだ物言いをしている。