だが、その一方でこの新しい勢多の唐橋には注目すべきエピソードが残っている。信長の死後100年経って成立した伝記ということで信頼度はあまり高くないのだが、『総見記』にはこうある。

 「そもそもこの橋の下は、龍宮の城門なんど(と)云伝へ」

 勢多の唐橋の水底には、龍宮の城門があると言い伝えられていた、というのだ。もしそうなら、龍や大蛇を信奉する信長としては、何がなんでも龍宮に通じる橋のスポンサーにならなければならないではないか。

 確かに、勢多の唐橋の東西のたもとには今も「橋姫神社」と「勢田橋龍宮秀郷社」が鎮座している。橋姫神社は龍神、龍宮秀郷社は大蛇に姿を変えて現れた龍神の神託によって勢多のムカデを退治した「俵藤太(たわらのとうた)」と呼ばれた藤原秀郷(ひでさと)を、それぞれ祀るものといい、平安時代から信長の時代を経てこの伝承が語り継がれていたことが分かる。信長が目をつけるのも当然だ。

 その上、橋の再建場所は水深が深く、柱を立てる適当な場所もなさそうだったにも関わらず、まるで川底から生えてきたように大石があり、しかも柱を立てるのにちょうどよい穴まで開いていた。これはすべて偶然で、皆が「龍神のする所」と言い合った、と話は続く。これは、まさに信長が龍神に祝福された存在であることを世間に宣伝するための「奇跡譚」そのものだ。

 信長は、朝廷に対しては「旅人のためですから」と当たり障りのないコメントを出しておいて、一方では勢多の龍神を朝廷から取り上げたのだ。
欄干がやや濃い茶色に塗り替えられた瀬田唐橋=2012年6月、滋賀県大津市(小川勝也撮影)
欄干がやや濃い茶色に塗り替えられた瀬田唐橋=2012年6月、滋賀県大津市(小川勝也撮影)
 ちなみに、この工事に際して信長は「末代のために頑丈に作れ」という言葉を使っている。表面的には末代まで旅人の利便に供するように、ということだろうが、一方では龍神のパワーが永遠に信長の手中にあるように、とも取れる。というよりも、むしろ後者が信長の意図するところだったと考えた方がよさそうだ。

 その7日後。京の妙覚寺に滞在している信長のもとを訪れた者がいた。奥州の伊達輝宗の使者である。輝宗は後に豊臣秀吉や徳川家康から警戒された「独眼竜」政宗の父であり、伊達家は代々将軍や朝廷に献金して陸奥国守護職や奥州探題に任じられ、中央の権威を利用して勢力を拡大してきた。輝宗は、信長を天下人と認めてよしみを通じようとしたわけだ。