輝宗は信長に岩石黒(がんぜきくろ、黒鹿毛)と白石鹿毛(しろいしかげ)という2頭の馬を献上した。特に白石鹿毛は奥州でも有名な、乗り心地抜群の駿馬(しゅんば)で、信長も礼状に「非常に目を驚かされた。近来まれに見る名馬で、大いに秘蔵している」と記している。

 実はこの馬、「竜(りょう)の子の由なり」と解説が付いていたという。龍の子だそうだ、とは聞き捨てならない。信長が気に入るのも当たり前の話だ。名馬は龍の子=龍馬(りゅうめ)、龍蹄(りゅうてい)と呼ばれたものだったが、それを手に入れ、騎乗している信長の満面の笑みを想像しただけで、ニヤニヤとしてしまうのは筆者だけだろうか。

 こうして信長が龍の子のオーナーとなってからわずか2日後の21日、政治的に大きな出来事が起こった。大坂本願寺との講和成立である。戦況不利によって和平工作を展開していた本願寺側の努力が功を奏し、茶湯の名物道具を献上された信長も「本願寺から懇望されているから、二度と心変わりしないようよく念を押した上で」と同意したのだ。

 「あれだけ本願寺の討滅を叫び、圧倒的に有利な状況になっていた信長がなぜ?」と思うところだが、その理由は後で明らかになる。

 11月4日、信長は朝廷から従三位権大納言に叙位任官され、続いて7日に右近衛大将に任じられる。これが重要な意味を持っていた。左右の近衛大将は武家の最高職であり、とりわけ右近衛大将、略して右大将というのは鎌倉幕府を開いた源頼朝が就いた役職だった。ということは、信長は幕府を開くか、そうでなくてもそれに相当する政治体制を主宰する大義名分を得たことになる。

 その上、信長が京から追放した室町幕府の将軍、足利義昭は左近衛中将のままであり、以前から右大将への昇進を熱望していたのだが、信長に横取りされてしまった形だ。つまり、信長は官職の面で義昭を上回った。実質だけでなく形の上でも室町幕府の上位にある存在、今や信長は文字通り武家の最高権威となったのだ。以降、信長に対する呼び方は「上様」が定着していく。
新清洲駅前にある織田信長像=愛知県名古屋市(中田真弥撮影)
新清洲駅前にある織田信長像=愛知県名古屋市(中田真弥撮影)
 この年、義昭は亡命先の紀伊国田辺から甲斐(かい)の武田勝頼、相模の北条氏政、越後の上杉謙信の三大勢力に働きかけて交戦を中止させようとしていた。「反信長同盟」に引き込んで、信長を討たせようと目論んだわけだが、ちょうど信長が本願寺からの講和要請を受け入れたころに武田と上杉は和平を結び、背後の脅威が去った勝頼はすぐに東美濃へ兵を動かすことになる。

 これに対して信長は「上様」となり、義昭を「反逆者」と世間にアピールした。その上、本願寺と講和したことによって室町幕府が掌握していた京とその周辺(当時はこれを「天下」と呼んでいた)に敵対勢力はいなくなり、その面でも信長は将軍に匹敵する実績を挙げた形になった。これも、龍の橋を造り龍馬に乗った効験だろうか。