11月10日、東美濃の岩村城を包囲していた織田軍に対して攻撃をかけた武田軍は信長の嫡男・信忠によって破られ、1100人余りの死者を出して退却。救援の望みを失った岩村城は開城降伏した。信忠は父・信長が右大将任官の時、「秋田城介(あきたじょうのすけ)」という官職を与えられたが、これは将来的に信忠が関東・東北方面の攻略のリーダーになることを宣言する意味があったと考えられる。

 18日後、その信忠に織田家家督と美濃・尾張の2カ国、それに岐阜城を譲った信長は、織田家も将軍も超越する存在として天正4(1576)年を迎えるのだった。

 ここで話は前回の続きとなる。

 明けて正月、織田家一同が屠蘇(とそ)気分を味わう時間は短い。信長が安土築城の大号令を発したのだ。普請奉行は丹羽長秀。1カ月後には早くも仮御殿が完成し、信忠に岐阜城を譲って以来、佐久間信盛の屋敷に居候していた信長は早速そこに引っ越ししている。

 信長が安土山を新たな本拠地に選んだ理由は何だったのか? それは単に京との行き来の手間を短くする、ということもあっただろうが、それ以上に本願寺や紀伊雑賀衆、中国地方の毛利氏など、近い将来敵として戦うことになるだろう相手との距離を詰めておきたい、という狙いもあった。

 軍勢の規模が大きくなっていたために、岐阜城からでは補給線が長くなりすぎて長期戦の維持が困難だったからだ。事実、上洛(じょうらく)以来信長の作戦行動の範囲は大坂辺りが限界点となっている。それを解決する手段が、関ヶ原経由で岐阜とも結ばれ、琵琶湖に面する舟運の便にも恵まれた安土山だった。
安土山頂から西の湖(琵琶湖の内湖。かつての大湖・中湖の一部)を望む(著者撮影)
安土山頂から西の湖(琵琶湖の内湖。かつての大湖・中湖の一部)を望む(著者撮影)
 4月1日からは天主(天守閣)の工事も始まった。こちらの普請奉行は木村次郎右衛門(名は高重)という男で、勢多の唐橋の架橋工事や、信長の右大将任命を決定する「陣座(じんのざ。上級の公家が政策を決定する場所で、現代なら首相官邸の閣議室といったところか)」の建築工事も彼の仕事だった。いわば信長の「御用建築家(アーキテクト)」である。

 「龍の橋」を築いた次郎右衛門は、信長の龍・大蛇志向を理解し、その意を受けて具象化・実体化を受け持つプロフェッショナルだったと考えられる。その彼が担当する安土城天主。それまでには存在しなかった唯一無二の建造物が、その姿を現すのはまだ少し先の事だった。そして、京・二条の「龍躍池」の新屋敷の築造も、この頃に開始されたというわけだ。