河西秀哉(名古屋大准教授)

 戦後、日本国憲法が制定され、天皇は「象徴」となった。昭和天皇の戦争責任をどのように回避し、天皇制を継続させるため、さまざまな「民主化」政策が実行され、アピールされた。その一つに「人間化」がある。

 1946年1月1日のいわゆる「人間宣言」に代表されるように、天皇は「神」ではなく、私たち国民といかに同じであるかが示されてきた。それによって、戦前における大元帥のイメージを払拭(ふっしょく)し、象徴天皇制に対する支持へと向かうように考えられたのである。

 皇族の結婚もまた、この路線が採用された。1950年、昭和天皇の三女である孝宮和子内親王と、元公爵家の嫡男ではあるが、日本交通公社に勤務する会社員、鷹司平通氏との婚約が発表されたが、孝宮の結婚相手は当初、東本願寺法主の長男、大谷光紹氏が候補だった。

 しかし、宮内庁内部の検討で、大谷氏から鷹司氏に候補が交代する。入江相政侍従は「要するに血族結婚は不可といふことになり、更にその他の点からいつても不可といふことになる」と日記で述べている。

 孝宮と大谷氏はいとこであったため、近親婚などの理由で変更となった。この「交代劇」からは、宮内庁が、戦後変化した象徴天皇制の内実を形成しようとしていること、そしてそれをどのように見せるかを意識していたかが分かる。

 翌年の四女、順宮(よりのみや)厚子内親王と、旧岡山藩主侯爵家の池田隆政氏との婚約発表も、この路線が継続する。入江侍従によれば、香淳皇后は当初、候補として池田氏ではなく、自らの実家である久邇(くに)家を挙げていた。

 入江侍従が日記で「近親結婚の非なる所以(ゆえん)をよく皇后様には申し上げてない」と記すように、旧来の形の中で結婚を進めようとする香淳皇后に対して、象徴天皇制という新たな枠組みの中で皇族の結婚を実行したい宮内庁側の意図がうかがえる。

1959年4月、皇太子殿下と正田美智子さんのご成婚を受け祝賀ムードの東京・銀座
1959年4月、皇太子殿下と正田美智子さんの
ご成婚を受け、祝賀ムードの東京・銀座
 そして、新しさが尊重された結果、順宮の結婚相手は池田氏に決定した。現在私たちがイメージするような「自由恋愛」の形ではないものの、民間に嫁ぐことが戦後の民主的な姿としてメディアでは描かれ、国民からは歓迎されたのである。

 こうした皇族の結婚相手を決定していく背景にあるのは、日本国憲法第24条である。その条文は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」すると記され、本人の意思で結婚できると定められている。象徴天皇制は日本国憲法の理念に沿いながら、戦後社会の中で展開してきた。それが、この制度を国民に定着させることにも繋がってきたのである。