久野潤(大阪観光大学講師)

 先月、iRONNAで百田尚樹著『日本国紀』への批判に対する論稿(以下「1月拙稿」)を執筆した。それに対して言論サイト「アゴラ」上で、歴史学者の呉座勇一氏から思いも寄らぬ激しい口調での反応があった。


 本稿は批判内容に対する再反論よりも、「反論に応える」のならば、ちゃんと1月拙稿(執筆時点では特に回答を求めるものではなかった)で提示した問いかけに答えてほしい、そして悪質な匿名ネットユーザーを巻き込んで展開するのが果たして建設的議論になるのかということを問うものである。

 そして、著者ではなく監修としてお手伝いした私が個別の記述について反論するのは本来僭越(せんえつ)であろう。一つの著書をめぐって、そんな構図で大々的に行われた議論を私も寡聞にして知らない。とはいえ、呉座氏が再反論①でこだわって指摘する以下の点にだけは念のため回答しておかねばなるまい。

 太平洋戦争で日本が「ベトナムとカンボジアとラオスを植民地としていたフランス」を相手取って戦った、という記述(初版本、391p)は些細なミスでは片づけられない致命的な錯誤である。

 『日本国紀』自身が記しているように(381p)、ナチスドイツに敗れたフランスでは親独傀儡のヴィシー政権が成立しており、日本はヴィシー政権の了解を得た上で北部仏印、さらには南部仏印に進駐している。これを見たアメリカは1941年8月に対日全面禁輸に踏み切った。南部仏印進駐は日米関係を決定的に悪化させ、日米開戦を不可避のものとしたのである。

 そして下記サイト(「『日本国紀』、日本が「友好国」に戦争を仕掛けてしまう」)で指摘されているように、太平洋戦争開戦後も日本はヴィシー政権による仏印植民地統治を容認している。日本が仏印で軍事行動を起こすのは、大戦末期にヴィシー政権の崩壊を受けて仏印駐留のフランス軍が連合国寄りになってからであり、植民地解放を目的とするものではない。

 「日本が植民地解放のためにフランスと戦った」という説明は『日本国紀』381pの記述と矛盾するし、南部仏印進駐、ひいては太平洋戦争を正確に理解できないので、「うっかりミス」では済まされない。

 周知の通り、昭和26(1951)年に締結された連合国と日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)にはフランスも調印しており、「日本はフランスとは戦っていない」などという弁は通用しない。著者の百田氏も、具体的にどういう戦闘が起こったといった言及をしているわけではない。

 呉座氏が連合国側のいわゆる東京裁判史観に与するとすれば、大東亜戦争全体の構図としても「植民地解放を目的とするものではない」と主張するのは分かる。
『日本国紀』の監修を務めた大阪観光大講師の久野潤氏
『日本国紀』の監修を務めた大阪観光大講師の久野潤氏
 しかし、百田氏は「(フランスの植民地であった)ベトナムとカンボジアとラオスを相手に戦争をしていたわけではない」という文脈で述べているのであるから、それを勝手に「南部仏印進駐」や「大戦末期」の軍事行動に論点を狭めて批判するのは牽強付会(けんきょうふかい)であろう。

 ともすれば呉座氏は「匿名ネットユーザーの議論も傾聴に値する」と主張するために当該トピックを提起したのかもしれないが、それについては読者諸賢の判断に委ねたい。