1月拙稿には「百田尚樹『日本国紀』をコンナヒトタチに批判されたくない」というタイトルがついていたが、ある筆者がお世話になっている方いわく「呉座さんは、自分も『コンナヒトタチ』扱いされたって思ったんじゃないの?」。1月拙稿において、同じくその批判記事について筆者が取り上げた秦郁彦氏(現代史家)の従来の研究については「大いに敬意を表したい」と書いた。

 呉座氏については1月拙稿の記事中に大きな写真が掲載されているものの、氏自体については言及しなかった。ただ、呉座氏の著作や論文を通して、氏が膨大な文献調査や先行研究整理について大変な労力をかけていることはそれなりに分かっているつもりである。少なくとも、(主にツイッター上の)悪質な匿名ネットユーザーと同列に捉えることなど思いも寄らない。

 話を戻すと、1月拙稿では自身の『日本国紀』とのかかわりを述べた上で、(1)ネット上での匿名ユーザーが悪意をもって流布している虚偽あるいは事実誤認に対する訂正 (2)匿名によるネット上の批判に対する見解、そして(3)実名の批判者に対する見解、を記した。
 
 (1)では、たとえば「監修者を名乗る久野は、原稿をちゃんと読んですらいない」といった趣旨で揶揄されていることを踏まえて、

 「2週間かけてゲラをチェックしていった。筆者の専門は昭和戦前期の政治外交だが、他の時代も合わせて、ほぼ全ページに赤(実際のペンの色は、他の編集工程をはばかって青であったが)を入れさせていただいた。幻冬舎側のチェックも、相当細かいところまで行われていたことを付記しておく。自分の研究室での作業だけでなく、移動中も膨大なゲラを持ち歩いてチェックしたものである。そしてその後のやり取りも経て、校了となった」と書いた。

 ところが、なんと呉座氏は上記(3)ではないこの部分を再反論①であげつらって、

小学校の夏休みの宿題ではないのだから、「どれだけがんばったか」ではなく結果が重要である。

と書いたのだ。

 筆者が「こんな時間かけてスゴイやろ」と自慢したわけではないことくらい、普通に読めば理解できるはずである。呉座氏に悪意はなく、単なる誤読か、先述の情念に基づくちょっとした思い込みだったと信じたい。ただ結果として、匿名ネットユーザーたちが大喜びでこの行を引用(コピペ?)してツイートすることになった。
百田尚樹氏の著書『日本国紀』
百田尚樹氏の著書『日本国紀』
 
 ここで改めて上記(2)の補足を兼ねて、匿名ユーザーの厄介さ―彼ら自身が自覚しているかどうかは別として―を確認しておきたい。本名も名乗らず氏素性も告げない人間が、議論らしきものを展開したとしても、こちらからは一つのアカウント=一人の人間かどうかさえ確認する術はない。

 実在のこの人、と特定できない存在複数(人間/アカウント)から同時多発的にツイッターで不快な表現のコメントをされたり返答を求められたりしても、はっきり言って時間を割く価値を見いだせない。仮に彼ら自身が「いいことをやっている」つもりでも、こちらにとっては得体の知れない匿名ユーザー群とでも言うべき集団から、相手が何者かも分らぬまま嫌がらせを受け続けている感覚となる。

 仮に時間を使って誠実に返答したとしても、その次のターンさえ保証されないというリスクがある(一方、彼ら側は正体さえバレなければリスクほぼゼロである)のも言うまでもない。

 ここまでは一般論として捉えていただきたいが、もちろん不快だと思った時点で匿名に限らず無視するという選択肢も存在する。ただ私は、歴史論議そのものから逃げているのではありませんよという意思表示として、フェイスブックで、「仮に所属・姓名を明示したうえで問い合わせがあれば、私個人の歴史観や史実認識についてお答えすることもあるでしょう」と表白した(1月拙稿でも引用)。

 「お答えすることもあるでしょう」という表現は、匿名でなくとも揚げ足取り系や、こちらの文章を曲解したまま議論を繰り返そうとする手合いには必ずしも対応できませんよという常識的な感覚によるものである。附言して、「ファンだったら匿名でも好意的に対応するだろう」といった一部の指摘は、まったく意味のない言いがかりとしか評しようがない。