ところが、実はこの点こそが、先述した英米の酷評記事がそろって批判するところでもある。いわく、脚本がウィキペディアをなぞっているように上っ面で、フレディたちの真実の姿に迫っていない。クイーンの音楽性の停滞やフレディの薬物、セックス、メンバーとの不仲などマイナス面を十分に描いていない、等々…。

 要するに、史実・事実をいいとこどりしている、偽善的で、クイーンの本質を知りたい大人の鑑賞にたえない、というわけだ。

 しかし、もともとそうした「大人の映画」とは逆の方針で作られたのだから当たり前の話で、批判は的外れと言わざるを得ない。

 そもそもブライアンたちがサシャ・バロン・コーエンを降板させたのは、サシャが求めた「大人向けのクイーン映画」を作る気が、彼ら現メンバーになかったからなのだ。ブライアンたちが目指したのは、家族連れを含むごく普通の人たちに、フレディが残したものを伝えたい一心にあった。

 そのために彼らは、薬物、セックス描写を極力削った。日本ではG指定で小学生でも見られるが、各国でも比較的低めのレーティングに抑えられているのはそのためだ。その上で、近年のホットワードであるLGBT問題について、最期の時まで自らの性をカミングアウトできなかったフレディに代わり大きな問題提起を行った。そんな作り手の意欲と勇気については、もっと褒めてもいいのではないだろうか。

 確かに史実については、たくさんの脚色がなされている。例えば映画では、メアリーと別れた後、フレディが別の女優と付き合った件は省略されている。

 また、ラストシークエンスとなるライブエイドは、フレディと仲たがいしていたメンバーの数年ぶりの集結のように描かれているが、実際は前年にアルバム「ザ・ワークス」を出しており、わずか8週間前までツアー公演もしていた。そもそもライブエイドが開催された85年には、まだフレディはエイズと診断されていなかったとされる。
映画『ボヘミアン・ラプソディ』の一場面=(C) 2018 Twentieth Century Fox
映画『ボヘミアン・ラプソディ』の一場面=(C) 2018 Twentieth Century Fox
 こうした点について、鬼の首を取ったように批判する人たちがいるが、個人的にはそんな意見に惑わされる必要はないと思う。映画は教科書でもなければ記録資料でもない。映画とは、何かを伝えるためにこしらえる、作り手の魂がこもった芸術作品だ。『ボヘミアン・ラプソディ』も、苦しみの中で生きたフレディ・マーキュリーという人物が遺(のこ)した美しいものを、彼を愛する人々が協力して持ち寄り、再結晶させたものだ。

 そんな思いが込められたライブエイドのシーンは、実際の記録映像とはあえて違う角度とカメラワークで撮影されている。映画を見た後、実際のライブエイドの中継映像と見比べてみてほしい。それも再現性の高さなどではなく、あえて「違い」にこそ注目してみるといい。

 するとどうだろう、映画版では、観客の私たちではなくフレディから見たこの世界をこそ、誰もが感じられるように作ってあると分かるはずだ。だからラミ・マレック演じるフレディ・マーキュリーが「We are the champions of the world.」と歌い上げたとき、私たちはその「世界」の真の意味に近づける。作り物であるはずの映画が、史実を超える瞬間。これこそ映画を見る醍醐味(だいごみ)だ。

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