日高義樹(ハドソン研究所首席研究員)
日本は軍事演習に驚いたが…
ウクライナの領土であるクリミア半島を、軍事力であっという間に制圧し占領したロシア陸軍の機動部隊の威力は、世界の国々にとって新たな軍事的脅威になっているが、日本はいまだにその脅威に気がついていないようである。
2014年8月、ロシア海軍はこれまでにない大規模な訓練を実施し、日本周辺の極東太平洋地域で敵前上陸作戦を含む軍事訓練を展開した。ロシアがこのような大規模な軍事行動を行うことは、この数年来、中国についで軍事費を増やし軍事力を強化していることから予想されたことであった。
「日本政府は日本の北方領土の周辺で突然、ロシアが大がかりな軍事行動を展開したことに驚いているようだが、ロシアが軍事力を強化し続けていることにまったく気がつかなかったのだろうか」
アメリカ海軍の首脳がこう述べているが、ソビエトつまり現在のロシアというのは非常に分かりにくいだけでなく、時にはあっという間に変化してしまう国なのである。
「ソビエトはあと少なくとも50年は続くだろうと考えていた。これほど早くしかも突然、崩壊するとは思ってもみなかった」
世界的な戦略家であるヘンリー・キッシンジャー博士が私の番組に出演してこう述べたことがあるが、冷戦で敗れたソビエトがロシアとして大きく甦っていることに、アメリカのオバマ大統領とその側近も注意をはらってこなかった。
「アメリカがウクライナから、ロシア寄りの指導者を追放しようとした時、オバマ大統領はプーチン大統領が力で反抗してくるとは、予想もしていなかった」
チェイニー前副大統領がワシントンの記者団にこう言ってオバマ大統領を批判したが、たしかにロシアの変わり身の早さに気がついていないのは、日本だけではなかった。
こうしたロシアの軍事的な復活を目にして私が思い出すのは、ハドソン研究所で一緒に軍事問題を研究したアメリカのウイリアム・オドム陸軍中将のことである。オドム中将はカーター大統領の軍事顧問や、アメリカのスパイ組織の大元締めであるNSA国家安全保障局の長官をつとめ、陸軍士官学校、コロンビア大学、イエール大学でも教鞭をとった軍事問題の権威だった。冷戦時代にはソビエトとのタンク戦争の戦術的研究者として世界にその名を知られていた。
「ロシアは強力な軍事力を持ち軍事的に強い。これに比べて中国は軍事的に弱い。もっと言えば軍事的に強いロシアは経済が弱く、軍事的に弱い中国は経済が強い」
これはオドム中将がハドソン研究所の研究会の席上で言った言葉だが、軍事的に強いというロシアの基本的な性格を考えれば、プーチン大統領が軍事費を増やし軍事訓練を強化している今の状況は、ロシアの隣に位置する日本にとって脅威そのものと言える。
大国として甦るロシア
プーチン大統領は、冷戦後の混乱のなか、議会にたてこもった共産主義者たちや、酔いどれで汚職まみれの大統領エリツインに代わって新しいロシアを建設するために、ロシアのエリートが将来の繁栄を託して擁立した政治家である。
ロシアのエリート、そして国民の期待を担ってプーチン大統領が登場した2000年以来、ロシア経済は順調に拡大して来た。2000年のロシアの国民1人当たりの生産高は1771ドルだったが現在は1万4千ドル、およそ8倍になった。プーチン大統領は、日本はじめアメリカ、ヨーロッパ諸国との関係を良好に保って資本の流入に力を入れ、石油と天然ガスの生産高をサウジアラビア並みに増やしてロシアを資源大国にしたのである。
しかしながら2012年頃からプーチン大統領の弾圧的な国内政治姿勢を嫌って資本がロシアの外に流失し始めた。ちなみに2014年には、前半の6ヶ月だけで750億ドルの資本が逃げ出している。資本の流失はロシア経済の停滞をまねき、プーチン大統領の政治的な危機が、大統領の側近の間からも囁かれるようになった。
「プーチン大統領が軍事力強化に乗り出し、力でロシアの存在を世界に示そうと決意した理由は、国内経済の停滞からロシア国民の目をそらすことにあった」
ハドソン研究所のロシア問題専門家がこう言っているが、プーチン大統領はロシアの国営通信社であるイタルタスの記者に次のように述べている。
「ロシアはこれから北極石油の開発に力を入れ、世界の資源国家としての立場を確立することによって、アメリカ、中国、日本に次ぐ経済大国の立場を確立するつもりである」
プーチン大統領はロシア国営のインターネット放送でも「ロシアの経済的立場を確立するために軍事力強化政策をとる」と述べているが、プーチン大統領が、日本やアメリカ、ヨーロッパ諸国との対立をいとわず軍事力を強化し続けているのは、これまでのやり方ではロシア経済の拡大が先細りになるだけでなく、自らの政権の維持が困難になると懸念しているからである。
プーチン大統領は2000年に就任した当時は、外国から資本を取り入れるためにいわゆる微笑外交政策をとり、日本に対しても北方領土を返すという姿勢をちらつかせながら、森総理など歴代の首相を操って来た。だがロシアは、日本政府が気づかない間に変化をとげ、ついに日本周辺で敵前上陸をふくむ訓練というキナ臭い行動をとるところまで来た。
隣の大国ロシアは、昔から日本にとって脅威だったが、ソビエトが冷戦に敗れてその脅威は一時的に消滅した。ところがオドム中将が言う軍事的に強いロシアが大国として甦り、日本の脅威になりつつある。何よりも日本にとって危険なのは、外務省はじめ日本政府がその脅威についてまったく気がついていないことである。
エネルギー戦略で軍事力強化
プーチン大統領がウクライナを侵略したのは、ソビエト帝国の再建を夢みてのことだという見方が一般には有力で、アメリカの雑誌『タイム』は、「冷戦第二幕の始まり」などという特集記事も掲載している。ウクライナに対する軍事行動が、かつてソビエト連邦の有力国家であったウクライナを取り戻すためであったというのは、確かに分かりやすい解釈である。だがハドソン研究所の専門家たちは少し違う解釈をしている。
「プーチンがクリミアにある海軍基地を占領したのは、ロシアの黒海艦隊がその基地を自由に使えるようにするためだ。この基地を経由すれば、ロシア南部で生産される天然資源を、黒海から地中海への海上輸送路を使って、自由に運ぶことが出来る。狙いはウクライナの領土ではない」
ハドソン研究所の専門家は私にこう言ったが、ウクライナ制圧がプーチン大統領のエネルギー戦略を達成するためのものだったにしろ、ロシア軍特殊部隊の軍事行動は完璧だった。プーチン大統領は、特殊部隊に民間人の服装をさせ隠密行動をとらせたが、さらに巧妙だったのは、アメリカの誇る、衛星による監視体制を完全に騙しおおせたことである。
「ロシア軍がウクライナ侵略に動くという情報があったが、アメリカ軍はロシア軍の動きを探知することが出来なかった」
国防総省関係者がこう述べているが、後になって漏れてきた情報によると、世界中を監視しているコロラドの宇宙防衛司令部は、ロシア軍がどこにいるかまったく分からず、文字通り悲鳴をあげたという。当時プーチン大統領が陽動作戦として、ロシア軍にウクライナ国境付近で訓練を行わせていたため、アメリカの監視衛星は完全にめくらまされてしまったのだ。
大規模な軍隊を秘密裏に行動させるには厳しい訓練をしなければならない。アメリカの衛星が探知できない通信体制を維持することも必要である。ウクライナ侵攻にあたってプーチン大統領は、2万以上の大軍を動員したといわれるが、ロシア特殊部隊は完全な隠密行動をとることに成功した。
ウクライナのクリミア半島を軍事占拠する前の2013年1月、プーチン大統領は地中海でロシア海軍による大規模な軍事訓練をおこなった。主力になったのは空母「アドミラルクズネツォフ」を中心とする新鋭の機動艦隊で、ロシアがシリアに維持しているタルトス基地などから進出して来た艦艇と、ボスポラス海峡を越えて来た艦艇あわせて50隻以上が、冷戦時代にも見られなかったような大がかりな訓練を展開した。
私は冷戦の最中、「赤い潜水艦を追う」というNHKの特集番組を制作するためソビエトの潜水艦を世界中追い回したことがある。地中海ではナポリのアメリカ海軍基地から空母に同乗し、海底に潜むソビエト潜水艦を見つけたが、今やアメリカの艦隊は姿を消し、代わってロシアの強力な海上艦隊が地中海を制圧し始めている。
アメリカ軍の記録によるとロシア海軍は、2013年1月の大訓練の後も17回にわたって大がかりな訓練を展開した。プーチン大統領のエネルギー戦略にとって何よりも肝要なのは、黒海から地中海へかけての海上航路を制圧し、石油や天然ガスの新しい輸送ルートを確立することなのである。
ロシアから輸出される石油や天然ガスはその大半がドイツに運ばれている。私もテレビ番組のために詳しく取材したことがあるが、バルト海を越えてドイツに運び込まれたロシアの石油や天然ガスが、ヨーロッパの国々に売られている。このバルト海のルートは北方ルートとよばれている。ロシアはウクライナからポーランドを経由する南ルートを作ってはいるものの地理的に制約されている。プーチン大統領は、独自の石油天然ガス輸送ルートを黒海から地中海に確立してロシアの世界的な戦略的、経済的地位を確保しようとしているのである。やがてはアメリカと肩を並べる海上輸送体制を確保する野望を抱いている。
プーチン大統領のエネルギー戦略にとってもう一つ大切になってきたのは、北極の天然資源である。アメリカのエネルギー省のデータによっても、温暖化で北極の氷が溶け始めるとともに、地下にある石油や天然ガスなどの資源を開発する動きが活発になっている。世界の石油と天然ガスの30パーセント近くが北極海の底に眠っていると報告する資料もある。
そうした新しい天然資源地図のなかで、最も有利な立場にいるのがロシアである。地理的にもロシア領土の一部が北極圏にある。この地域には多くの油田が存在しているといわれる。その最大のものは、北極圏ぞいのシベリア西地方、さらに、東西のバレンツ海地方などのほか、サハリンにも広大な石油資源が眠っている。
アメリカエネルギー協会の情報によればロシアは、こうした大きな6つの石油天然ガス地帯の開発についてきわめて有利な立場にある。プーチン大統領は既に新鋭の砕氷船二隻を建造して北極圏に送り込んでいるほか、周辺の海上基地を強化しロシア艦隊を増強している。
プーチン大統領が2013年に地中海で、冷戦時代にもなかったような大規模な海軍訓練を展開したのにつづいて2014年8月、極東太平洋で上陸作戦をふくむ大がかりな演習を行ったのは、北極からの石油や天然ガスを輸送するための安定した航路を確立するためであった。
「北極からベーリング海を通り、日本列島ぞいに東南アジアに至るシーレーンはロシア経済を拡張するための、なくてはならないルートである。今後この海域のロシア太平洋艦隊を強化する」
プーチン大統領は、2014年はじめ、ロシアのテレビでこう述べたが、ロシア海軍は33隻の新しい艦艇を建造し、ウラジオストクを中心に太平洋艦隊を急速に強化する。
「プーチンによる太平洋艦隊強化の表れが、今度の極東太平洋における前例のない大規模な軍事訓練だ」
アメリカ海軍の首脳はこのように指摘している。
プーチンは北方領土を返さない
ロシアがアジア極東の海軍力を増強し、日本とアメリカにとって新たな脅威になっていると懸念するアメリカ海軍の首脳が増えている。ラフェッド前海軍総司令官は、2011年3月、アメリカ上院歳出委員会の軍事小委員会でロシア海軍の脅威について警告した。この小委員会の内容は秘密になっている部分もあり全てが明らかではないが、私がよく知るラフェッド前総司令官周辺の専門家が次のように指摘している。
「プーチン大統領はアジア極東戦略を強化する重要な要素として日本との対決を明確にしているだけでなく、北方領土を日本に奪われないために海軍力を強化していると、アメリカ海軍関係者にもらしている」
アメリカ海軍専門家によると、プーチン大統領は今後、最新の原子力空母や潜水艦、戦車上陸用舟艇などを増強しウラジオストクに集結させる。またフランスから最新鋭のミストラル型強襲上陸用空母を4隻購入する計画をたて、そのうちの二隻をウラジオストクに配備することをすでに決めた。さらに、このミストラル型強襲上陸用空母に乗り込ませる海兵隊つまり、ロシアの海軍歩兵部隊の訓練をフランスに依頼している。
プーチン大統領はウラジオストクだけでなく、かつて日本領であった南樺太のユジノサハリンスクの海軍と空軍基地を増強している。さらに北方の千島列島先端にも太平洋艦隊のための海軍基地と空軍基地を作っているだけでなく、後方支援基地としてロシア本土沿岸地域に、数カ所の海軍基地と空軍基地を建造していることをアメリカ軍が確認している。
ウラジオストクから樺太、千島列島さらには、ベーリング海峡、ロシアの沿岸のロシア太平洋艦隊の基地が強化されたり、新たに作られたりすれば、日本にとって大きな脅威になる。とりわけ注目されるのはウラジオストクに配備される、ミストラル型空母を中心とする上陸用集団の強化である。アメリカ海軍の専門家はこう述べている。
「ロシアがウラジオストクを中心としてロシア太平洋艦隊を強化しているのは、軍事的に見るとアメリカの力の後退によって生じる力の真空をうめようとしているからである。この動きの背後には中国の軍事力拡大に対する警戒があるが、基本的には日本を敵視し、北方領土を返さないという決意の表明である」
ラフェッド前海軍総司令官の周辺にいる大佐クラスのなかには、次のような意見も出ている。
「ウラジオストクと樺太、千島の基地を自由に使うためには、ロシア太平洋艦隊が、津軽海峡や宗谷海峡をきままに行動することが必要だ。プーチンはロシアの歴史的な戦略構想に基づいて、北海道の占領も考えている」
ロシアの歴史的な戦略構想とは、第二次大戦後、北海道をソビエト領にしようとした当時のスターリン首相の野望をさしている。プーチン大統領は軍事力を増強してロシア拡大を敢行した独裁者ピョトール大帝や、失敗はしたものの世界的大艦隊を構想したソビエトのブレジネフ最高指導者も手本にしているといわれる。
1990年代、日本から資本を取り込むためにロシア政府の首脳が日本に積極的に近づき、北方領土返還をエサに日本との友好関係を作ろうとした時代は終わりを告げた。プーチン大統領が政治的立場を維持するために始めた軍事力拡大、太平洋から引くという弱気なオバマ大統領の政策から生じた力の真空、そしてアメリカにとって代わろうという中国の野望などがうずまき、極東太平洋における日本の安全は、いまや大きく脅かされている。
ソビエト帝国が崩壊した当時、ロシアは大混乱に陥った。そのロシアが資源大国となり、その資源を売って得た資本によって軍事力を拡大し、極東太平洋でエネルギー戦略を推し進めることになるとは、誰にも想像できなかったことである。
私はロシア専門家ではないが、テレビの番組を制作するにあたって国際情勢全般の動きを取材するため、ソビエト崩壊後のモスクワやウラジオストク、サンクトペテルブルクなどを取材したことがある。いまも印象に残っているのは、ロシアのヒトラーになるといわれたタカ派政治家ウラジミール・ジリノフスキーの言葉である。
「資源のない岩だらけの日本を侵略しようという気はまったくない」
それ以前、NHKの海外放送の責任者であった頃、私はモスクワ支局を通じてロシア政府に当時NHKの新技術であったハイビジョンを紹介し、ロシアの実力者であったアフロメーエフ陸軍参謀長に単独会見もしたが、当時の混乱したロシアと経済大国であった日本の間には、ある意味でたしかに蜜月時代が存在した。しかしながらロシアはすでに述べたように大きな変化をとげ、プーチン大統領は政治的に強硬姿勢をとらざるを得なくなっている。
いま日本の人々が留意すべきは、こうした状況のもとで西太平洋から後退しつつあるアメリカが、再びアジアに関心を持ち本当の意味での抑止力を行使するようになるには20年、30年の長い歳月が必要であるということである。フランクリン・ルーズベルト大統領から始まった、アメリカのアジアへの勢力拡大のサイクルはとりあえず終結期に入った。
そのアメリカの後を襲うべく、経済力をつけた中国が軍事力を拡大しているが、資源を中心とするロシア経済と軍事力の拡大は、中国のそれを上回る勢いである。しかもオドム中将が指摘したように、ロシアはもともと軍事的に強い国なのである。
中国は旧ソビエトが建造した古い空母を買い入れ、アメリカの技術を盗んでステルス戦闘機を作ったりレーダーを開発したりしているが一部、衛星技術で成功しているだけで、アメリカの専門家は中国の軍事力を高くは評価していない。
しかし、日本の国際戦略、外務省の外交、国民の憲法論争などを見ていると、その殆どが、いわば「張り子の虎」である中国の軍事的脅威に関心を奪われている。集団的自衛権構想にしても、中国の脅威とそれに対応する東南アジアの動きに呼応するものに過ぎないようだ。真に日本の安全を図ろうとするならば、もう一つの強力な敵、プーチン大統領のロシアがもたらす危機に対処する戦略を、ただちに構築しなければならない。
ひだか・よしき 昭和10(1935)年生まれ。東京大学文学部英文科卒、東京大学新聞研究所を経て34年、NHK入局。ワシントン支局長、理事待遇アメリカ総局長、審議委員を経て退職。ハーバード大学客員教授、同大タウブマンセンター審議委員を経て現職。全米商工会議所会長顧問。テレビ東京で「日高義樹のワシントンレポート」を17年間製作。著書に『アメリカを知らない日本人』(講談社)、『オバマの嘘を知らない日本人』(PHP)など多数。