第1次安倍政権は、先代の小泉氏が「個人芸」で対応していた「政治のメディア化」の状況に、ホワイトハウス型のチームで挑もうとした。その象徴が補佐官制度であったが、この試みは内部に軋轢(あつれき)を生じ、結果的に失敗する。

 また、政策面でも、安倍氏が重要だと位置付けたさまざまな政策を性急に行おうとしたことも、国民世論との乖離(かいり)を招いた。彼自身、第1次政権の失敗について以下のように振り返る。

 「戦後レジームからの脱却」という大きなテーマを掲げ、幸い衆議院の多数がありましたから、やらなければいけないことを今のうちにどんどん進めようという気持ちが強かった。教育基本法の改正、憲法改正のための国民投票、公務員制度改革-。しかし、私がやりたいことと、国民がまずこれをやってくれということが、必ずしも一致していなかった。そのことがしっかり見えていなかった。私が一番反省しているのは、その点です。(中略)私としては、国民の関心の有無にかかわらず、今、自分がやるべきだと思うことをやるのが正しいんだと、そう考えていました。祖父の岸信介は安保改定の意義が十分に理解されていなかったとき、「俺の信念は正しい」と、国会を十重二十重にデモ隊に囲まれようとも貫き通した。私もそうあるべきだと思っていたんです。(中略)でも、大きな政策を実行するには国民の理解を高めていくことが重要ですが、それには時間がかかる。時間がかかることに取り組むためには、まず政権を安定させ、継続させなければならない。これが前回辞めて、初めてわかったことです。


 当時はテレビの政治報道も元気な時期だった。2005年の郵政選挙で小泉氏がテレビを利用したことの反作用だったか、テレビも政治をより気軽に扱う「政治のメディア化」が頂点に達していた。

 テレビ番組では国会議員たちがちょんまげ姿で政局劇を演じ、芸人たちが議員たちを怒鳴り飛ばしていた。その中で、世論と違うことを行おうとした安倍氏は「KY(空気が読めない)」と揶揄(やゆ)されるようになった。

 その後、安倍内閣は年金問題や国会議員のスキャンダル・失言の中で参院選に敗北し、敗北後はマスメディアによる「辞めろ辞めろ」の批判の中、体調を崩して退陣した。昭恵夫人は以下のように当時を振り返る。

 2007年の参議院選挙の後からというのは、わたしたちにとって公邸での生活は地獄のような日々だったんです。毎日やらなくてはいけないことがある一方で、主人の体調がどんどん悪くなっていく。そういうなかで批判も多くなるし、外国訪問にも行かなくてはならない」「父のあとを継いで、とんとん拍子に総理にまでなってしまっていたので、持病があったとはいえ、あの辞任は初めての大きな挫折だったと思います。


 ところが、5年間の雌伏を経て、安倍氏はカムバックする。マスメディアの政治部も含め、ジャーナリズムからはほぼノーマークからの総裁選の出馬と当選、そして首相就任であった。
2006年9月、就任会見に臨む安倍晋三首相。右手奥には小池百合子氏など首相補佐官が並んだ(大西史朗撮影)
2006年9月、就任会見に臨む安倍晋三首相。右手奥には小池百合子氏など首相補佐官が並んだ(大西史朗撮影)
 カムバック当時、筆者がマスメディアの記者たちと話していると「また、安倍が出てきたけど、どうせ腹が痛くなってやめるんだろう」とか「オレたちがまた痛い目にあわせてやるぜ」といった雰囲気が強かった。政治学者の多くも安倍政権の「高転び」を予測していたと思う。しかし、その雰囲気はすぐに一変し、安倍氏は戦後最長はもとより、憲政史最長の在任期間を迎えようとしている。