常見陽平(千葉商科大学国際教養学部専任講師)
39歳の若さで脳腫瘍により亡くなった父は愛煙家だった。実にかっこよくタバコを吸う大人だった。カートン買いが普通だった。
寝たきりになる前は、選挙速報があるたびに大量のタバコを用意し、かじりついて開票結果を見ていた。歴史学者の父は、病室でも洋書をめくりながらタバコとコーヒーを嗜(たしな)んでいた。危篤状態になり、集中治療室に入ってからも「タバコが吸いたい」と言った。
同業の母も喫煙者で、63歳のときに一度体調を崩すまで吸っていた。もう禁煙して10年になる。洋書をめくり、タバコとコーヒーを嗜(たしな)む両親を見て育った。
さらに、祖父は、日本たばこ産業(JT)の前身である日本専売公社の職員だった。戦前の樺太(当時)でタバコを売っていたこともあるそうだ。実家のアルバムには「ピース」の缶を持って地方紙に載っている記事がスクラップされている。
このような生粋の「タバコ家系」で育ったにも関わらず、私は喫煙者ではない。ただ、嫌煙原理主義者ではない。
嫌煙団体の皆さんはがっかりするかもしれないが、タバコを吸う人は「かっこいい」と思う方だ。例えば、2013年に宮崎駿監督の映画『風立ちぬ』が公開され、主人公が喫煙することについて抗議の声が上がったが、私はそのような声に疑問を持った。

喫煙する権利は認めなくてはならない。喫煙は文化でもある。言うまでもなく、産業でもある。
しかし、「タバコ休憩」だけは納得がいかないのだ。なぜ喫煙者だけが、1時間に10分程度休むことができるのか。