橋場日月(歴史研究家、歴史作家)

 『歴史街道』4月号(PHP研究所)「明らかになった小牧山城」で、歴史学者で城郭研究の権威・中井均氏(滋賀県立大学教授)が信長の小牧山築城の意図は間々観音降臨のための磐座(いわくら)と説明されていた。筆者がこの連載の第8回で述べた内容を、偶然ではあるだろうが肯定いただいている点で、素直に喜んでいる。

 さて、天正4(1576)年4月1日、安土城では石垣工事が開始された。尾張・美濃・伊勢・三河・越前・若狭・山城・摂津・近江・河内・和泉・大和の武士たちも作業員として動員され、隣の観音寺山ほかから大石が1千、2千、3千と引き下ろされて安土山へ運び上げ積まれていく。

 ところが、信長の甥にあたる津田坊が持ち込んできた大石は、巨大で重すぎるためにまったく山上へ引き上げることができない。おそらくこの石の運搬作業を記録したと思われる宣教師フロイスの言葉によれば、約10メートル・112トンという大石の引き上げ作業中、けん引する綱が切れたかして下に滑ったため、150人以上が大石の下敷きになって死んだという。

 そこで信長は自ら陣頭指揮を執ることにした。羽柴秀吉・滝川一益・丹羽長秀ら3重臣の配下1万人あまりが日夜ぶっ通しの作業で、3日かけてようやく運び上げたという(『信長公記』)。

「信長公蛇石曳之図」(伊藤龍涯作、摠見寺所蔵)2017年1月15日
「信長公蛇石曳之図」
(伊藤龍涯作、摠見寺所蔵)2017年1月15日
 信長は足利義昭の二条御所造営の際にも造園用の名石をあや錦や花で飾り立て、笛太鼓のおはやしに乗せて運んだから、安土山でも同じ趣向でにぎやかなお祭り仕立てで作業員の士気をあげ、呼吸を合わさせて石を引かせたのだろう。

 この大石だが、『信長公記』には「蛇石(じゃいし)という名石」とある。もうこの名前だけで、この連載の読者の方々は「あ、また蛇か」と思われるだろう。この石を安土に持ち込んだ津田坊とは、津田坊丸(御坊)、のちの津田七兵衛信澄(のぶずみ)で、彼は当時近江高島にいたから、高島から蛇石を船で対岸の安土へ運んだのだろうか。