時代が少し下って編まれた『織田軍記』では、この石は「蚫(あわび)石」と呼ばれ、丹羽・滝川・羽柴の1万人あまりが昼夜兼行で曳(ひ)き、信長が自ら金の幣(ぬさ)を持ち木遣り(きやり・重いものを大勢で運ぶ時の労働歌)を歌い、3日がかりで上げたと書かれている。

 鮑(あわび)はこの世とあの世をつなぐ海の精霊として扱われることが多く、船を救ったり、食べると永遠の命を得たり、害を加えると時化(しけ)を起こすなど霊験あらたかな存在として考えられていた。例えば干し鮑は長寿の象徴として縁起物にされているから、厄除けグッズマニアの信長としてはその名前だけでも自分の城に持ち込みたい一品だったろう。あるいは、この石の形が鮑に似ていたものか。

 また、「蛇石」という呼び方については、現在富山県の片貝川に残る「蛇石」が水の神として祀られ、長野県横川の「蛇石」も治水の象徴として知られている。ともに蛇のような模様が入っていることも共通している。おそらく安土山へ運び込まれたものも、これらと似たような伝承や紋様を備えていただろう。

 信長は、水を操る霊力を帯びた巨石を安土山の山頂へと引っ張り上げて、山と城を蛇の磐座にしようと考えたのだ。

 興味深いことに、安土山の南西18キロには三上山が鎮まっている。この山は「近江富士」の異名を持つ優美な山なのだが、琵琶湖の龍神の伝説を持ち、山頂には磐座がある。この龍神は、前回紹介した瀬田の唐橋での俵藤太秀郷の大ムカデ退治に登場した龍だ。信長はこの三上山の龍神の磐座を、安土山で蛇神の磐座としてコピーしたのかもしれない。
横川川の河床に横たわる大蛇のように見える「蛇石」は、いまも下流の住民を見守っている=長野県辰野町
横川川の河床に横たわる大蛇のように見える「蛇石」は、いまも下流の住民を見守っている=長野県辰野町
 さらに、安土山の東に連なる繖山(きぬがさやま)だ。観音寺山とも呼ばれ、かつて六角義賢(承禎)の城があったこの山の頂には雨宮龍(あめみやりゅう)神社がある。その名の通り、龍の磐座だ。

 まさに信長好み、そんな良い場所があるなら、観音寺城跡を修復整備して本拠にすれば良いのに、と思わないでもないが、そこは信長。安土山を選んだのには、いくつか理由があったと考えられる。

その1、琵琶湖の内湖に接し、敏速に船で移動できる安土山の立地を優先した
その2、天下人として、六角氏の居城跡を再利用するのは沽券(こけん)に関わると考えた
その3、室町12代将軍・足利義晴が仮の御所を置き、15代の足利義昭も永禄11(1568)年の上洛(じょうらく)戦の際ここに逗留(とうりゅう)したことから、義昭を追放した信長としては好ましい場所ではなかった
その4、繖山の観音正寺と桑実(くわのみ)寺は天台宗の寺院であり、同じく天台宗の比叡山延暦寺(えんりゃくじ)を焼き討ちした信長としてはいかにも居心地が悪い