もう一つ言えば、安土山の麓には石部(いそべ)神社が鎮座していた。現在も安土城跡のからめ手、百々橋口(どどばしぐち)のすぐ内側にある古社だが、その社記には「天正4年織田信長公安土山に築城するや守護神として奉祀(ほうし)し社殿の修復をなし祭祀を厳修せり」とある(社頭掲示板)。

 信長は安土城築造に際し石部神社の別当寺である九品寺(桑実寺の子院だったらしい)は焼き払ったが、この神社は城の守護神として大事に保護したのだ。この辺りにも、神と仏に対する信長の態度の違いは鮮明に表れている。

 結論として安土山を選んだ信長は、安土山の頂に「蛇」を勧請(かんじょう)した。蛇石は、麓の石部神社、尾根続きの繖山の「龍」とセットとなり、安土山の城下を守る役割を果たす。彼の龍・大蛇への傾倒は、この新天地・安土でもしっかりと継承されたのだ。

 徐々にその姿を現しつつある安土城。だが信長は、この城を舞台にした驚天動地のイベントを考えていた。公家の山科言経が日記の紙に転用した一通の書状(紙背文書)がある。

 書状は、言経の姉で越前国の松尾兵部少輔に嫁いでいた阿茶が父、言継に出したもので、「明年は安土へ内裏様行幸申され候わん由(明くる天正5年には安土に内裏様が行幸されるとの噂)」という内容だった。(『書状研究』76.9「安土行幸を示す『言経卿記』紙背文書の一通について。橋本政宣)

 内裏様というのは現代ではひな人形の「お内裏様」=男雛(親王雛)を指すが、本来的には天皇や親王単独を意味する言葉ではなく、皇后と対のセット、つまり皇室そのものを意味する。一方、「行幸」は天皇単独の外部訪問を意味する(皇后の外部訪問は「行啓」)からややこしい。
織田信長が居城の安土城を建てたとされる安土山一帯。県が天守の再建を検討している=2019年1月11日、滋賀県近江八幡市安土町下豊浦(撮影・川瀬充久)
織田信長が居城の安土城を建てたとされる安土山一帯。県が天守の再建を検討している=2019年1月11日、滋賀県近江八幡市安土町下豊浦(撮影・川瀬充久)
 ただ、後に信長の事業を継承発展させた豊臣秀吉が天正16(1588)年に実現した後陽成天皇の「聚楽第(じゅらくだい)行幸」では、天皇だけでなく母の新上東門院や妻(准后)の近衛前子らも同道しているし、同じく寛永3(1626)年の徳川幕府による京・二条城行幸でも後水尾天皇とともに妻(中宮)の和子(まさこ、徳川秀忠の娘)が赴いていることから考えると、天皇単独でなく、皇室そのものが安土城にやって来る予定だったのではないだろうか。

 この信長の皇室行幸啓プランはやがて目に見える形となって来る。その際に紹介することにしよう。