さて、安土城石垣着工から2日後の4月3日、信長は配下の明智光秀・細川藤孝に「大坂方面の麦はぜんぶなぎ捨て終わったか。大坂本願寺にこもる一般の男女は赦免しても良いが、坊主は生かすな」と書き送っている。

 大坂本願寺と講和を結んだ信長だったが、平穏な時はつかの間にすぎなかったのだ。

 この年の2月8日、将軍足利義昭は紀伊国由良から毛利輝元を頼って備後国鞆(とも)に移ったのだが、本願寺はこの義昭と連携して再び反・信長の兵を挙げたという成り行きだったため、この時点では信長にとって望まざる決裂だっただろう。なにしろ、天皇を安土城に招くには畿内が平和で統一されていることが第一要件となるのだから。

 信長は兵糧攻めを光秀らに指示すると、4月14日には大坂各所の砦から本願寺攻撃を再開させる。しかし、敵は手ごわかった。義昭の誘いを受けた越後の上杉謙信も5月になって反・信長を表明。信長の焦りは、残虐な処置を生む。越前で一向一揆の残党が起こした一揆では、鎮圧に当たった前田利家が5月24日、一揆衆1千人ほどを皆殺しにした。

 その状況を記した小丸城(現在の福井県越前市五分市町)跡出土の瓦には、下記のようにある。


「此書物後世ニ御らんじら□(欠ケ)れ御物がたり可有候(あるべく)

然者(しからば)五月廿四日いき(一揆)おこり候まま

前田又左衛門尉殿いき(一揆)千人ばかりいけどりさせられ候也

御せいばいハはっつけ(磔)かま(釜)にいれられあぶられ候也

如此候(かくのごとく) 一ふで書きとどめ候」

「この記録を後世の人は読み、語り伝えてほしい。それでは(教えよう)、5月24日に一揆が蜂起したので、前田利家殿が1千人ほど生け捕りにした。その処罰は、磔(はりつけ)・釜煎り(釜に油をたぎらせて焙り殺す)だった。以上の通り、一筆書きとどめる)」


 これは後世に利家の功(こう)を伝えるための記録と考えられ、一向一揆は悪と規定されたものだが、本願寺を代表する敵対仏教徒への信長の怒りはすさまじい。やがてこれが本願寺本体にも及ぶと考えると、門主の顕如(けんにょ)が必死に抵抗するのも当然だったろう。
織田信長公像=2018年11月、岐阜市役所(中田真弥撮影)
織田信長公像=2018年11月、岐阜市役所(中田真弥撮影)
 その後も信長にとっての苦境は続いた。7月の第一次木津川口の戦いでは、織田水軍は毛利水軍に惨敗を喫して本願寺の封鎖を破られ、兵糧補給を許してしまうことになる。

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