戦後新しい皇室典範からは元号規定が削除され、長らく元号は法的根拠を失った。元号法を模索する動きは水面下であったものの、革新陣営からは、天皇が時を支配するという考え方に抵抗感があり、成文化するには時間がかかった。

 ようやく福田赳夫内閣で元号法制化による存続を明確化し、大平正芳内閣で元号法が公布された。ただ、元号存続の是非に関わる本質的な論戦を避けたため、非常に簡素な条文となっている。元号は政令で定めることと、皇位継承があった場合に限り改元する旨が書かれているだけである。しかし「即日改元」の原則は続けることになり、象徴天皇制下でもなお、天皇崩御を予期して、秘密裏に文字案の選定が進められることになった。

 昭和天皇の病状が悪化すると、内閣の担当者で協議が始まり、新天皇が即位すると有識者による懇談会が開かれ、小渕恵三官房長官が三つの原案を示し、その後衆参両院の正副議長の意見を聞き、閣議を開いた上で「平成」を決定している。今回の選定過程もこの平成改元にならっている。

 元号は天皇の在位期間を基本に数える政治的紀年法ではあるが、正確に天皇の即位と退位にあわせる必要はない。明治改元は明治天皇即位より1年9カ月後に行われている。前近代では先帝崩御の1年後、もしくは2年後に改元することの方が一般的であった。先帝に対する一定の服喪の期間を経て改元する方が、儀礼的にもふさわしい。例えば、崩御後翌年の1月1日をもって改元とすれば、このような綱渡りをしないで済むし、西暦との換算も楽になる。

 元号は国民生活と密接な関係にあり、文字案の審議も原則公開で行った方がいいのではないか。天皇崩御を予期して改元手続きをしなければならないから、非公開にならざるを得ないのであり、翌年改元となれば、公開しても不都合はない。また秘密裏に進めれば、それを知りたくなるのが人情であり、マスコミによるスクープ合戦も起きる。ごく少数の人間で審議を進めると、元号の文字に致命的なミスが起きやすい。
昭和天皇の霊柩を乗せた惣華輦(そうかれん)が、おごそかに、ゆっくりと葬場殿に向って進む=平成1年2月24日(東京ビジュアルサービス室)
昭和天皇の霊柩を乗せた惣華輦(そうかれん)が、おごそかに、ゆっくりと葬場殿に向って進む=平成元年2月24日
 今回の改元は、譲位によるものであり、崩御を予期しての改元手続きでないため、作成過程を公開しても問題はなかった。将来の課題として、象徴天皇制にふさわしい元号制定過程を検討した方がいいのではないか。