大和が戦後に残したもの


 上島 その意味で、大和が活躍できる最後のチャンスは先に申し上げたレイテ沖海戦です。昭和19年10月23日から26日にかけて行われた「捷〈勝利の意〉一号作戦」は、内地から南下した小澤治三郎中将率いる囮の機動部隊がハルゼー大将率いる米機動部隊の主力を北方に誘い出し、その間に大和、武蔵を中心とする第一遊撃部隊(戦艦部隊)がレイテ湾に集結中の米軍輸送船団を攻撃、上陸中のマッカーサーの陸上部隊を戦艦の艦砲射撃で壊滅させるというものでした。

 日本側は武蔵を失ったものの、壊滅覚悟の小澤艦隊はハルゼー部隊の釣り出しに成功し、海峡の入り口はがら空きになりました。第一遊撃部隊を率いたのは栗田健男中将で、栗田艦隊は25日早朝、サマール島沖で米空母部隊を発見し、大和、長門、榛名、金剛などの戦艦の主砲が次々火を噴いて追撃戦を開始しました。相手は折からのスコールに隠れ、ひたすら逃げるのみで、北方に誘い出されたハルゼー艦隊に帯同する高速戦艦部隊に平文で救援電報を打つほどだった。

 にもかかわらず栗田艦隊は午前9時過ぎ、2時間少しの戦闘で追撃を中止しました。そして、レイテ湾突入を目前にしながら反転、北上してしまう。同じくレイテ湾突入をめざした西村祥治中将の部隊は予定どおりスリガオ海峡に達し、単独突入した25日未明の海戦で玉砕している。連合艦隊が出した命令に従って西村艦隊も小澤艦隊も玉砕したのに、栗田艦隊だけは命令を遂行できなかった。最も力のある戦艦群を率いながらそれを使いきることをしなかった。

 戸高 レイテ湾突入は沖縄特攻よりもずっと勝機がありました。もう輸送船は荷揚げを終えて空船になっていて無駄だったという説もありますが、それを言うなら沖縄特攻のときもすでに米軍は上陸していたのだから同じです。マッカーサーが上陸していたらそれを砲撃して、タクロバンに飛行場を造らせなければ日本軍の航空部隊が活躍できた可能性がある。

 上島 湾奥まであと約100キロに進出したのだから、大和の主砲到達距離まであと約60キロですね。潜水艦などの待ち伏せがあったとしても、護衛の駆逐艦が大和を守って主砲到達距離にまで進んで全弾撃ち込むことができたら…、と思うのは、死んだ子の年を数えるのと同じかも知れませんが、敵は動かない地上にある、たとえ沈められても大きな「戦果」はあり得た。沖縄特攻での沈没とは違う、大岡昇平が『レイテ戦記』で書いた「反転は悔いを千載に残したものというのが、われわれの心情的判断である」という無念を引きずることにはならなかったのではないか。

 戸高 栗田健男中将は戦後、「敗軍の将、兵を語らず」と寡黙でしたが、海軍記者の長老伊藤正徳にだけは口を開いて、「三日三晩ほとんど眠らなかったあとだから、からだの方も頭脳の方もダメになっていただろう」と判断ミスを認めています(『連合艦隊の最後』)。しかし判断ミスというよりも、そもそも「見敵必戦」と戦闘目的が徹底されていなかったというのが本当でしょう。当時の海軍の作戦命令書とその結果を見ると私は腹が立ってしようがない。譬えはよくないが、金庫破りが金庫を開けた瞬間に、自分の腕前に満足して帰ってしまうようなところが常にありました。作戦命令そのものが内向きで、その人の履歴を傷つけないという・配慮・でつくられている。官僚組織の庇い合いという最もよくない点が現れている。せっかく決戦兵器を持ちながら、運用する人間の側に問題があるから威力を発揮できない。

公試運転中の「大和」
 上島 「大東亜戦争の反省」とは何かということを口にするとき、私はいわゆる東京裁判史観的な意味での反省はしませんが(笑)、また戦ったこと自体を愧じる気もないのですが、大和ほどの戦艦を十分に戦場で働かせられなかったことは反省する必要がある。曖昧にしてはいけない。それをすることが、それぞれに力を尽くして艦に殉じた3000名近い将兵への本当の供養だと思うんです。兵員は命惜しみをしなかった。戦艦というモノを惜しんだことで人の命を甲斐なく失ったという悔いです。大和の「悲劇」を語るとき、悲劇特有の美しさによってそれをもたらした人たちの怠慢や不実を糊塗してはならない。

 ここで冒頭の「なぜ大和に惹かれるのか」に戻ると、私はやはりモノとしての大和ではなくそれに関わった日本人の気概、勇気に共感し、惹かれるのだと思うのです。特攻隊も同じですが、運命を受け容れて、じたばたしない。諦観とは違う、覚悟を決めた上での死生観の凄みというか…言葉としてこなれた表現ができないのですが、そんなところがいまも日本人の琴線に触れるのではないか。こういう物言いをすると、「戦争を美化するのか」と抗議されるのですが(笑)。

 戸高 兵器としての大和はその能力を発揮することはなかった。けれどもそれに関わった人間は極限の働きをした。そのギャップに惹かれるのかも知れませんね。
 大和が沈んで戦後に残したものを考えると、私は別の感慨もあります。大和ほどの戦艦を米英は建造できたか。設計だけならできたでしょう。しかし実際に建造する能力が呉の海軍工廠にはあった。鉄鋼から大砲をつくり、装甲鈑をつくり、それを組み立てて一隻の戦艦にするという現場の力は当時の日本がいちばんだった。伊藤正徳が『大海軍を想う』にこう書いています。

 「大和、武蔵は沈んだが造船技術は沈まなかった」

 まさにそのとおりで、呉海軍工廠は戦災を受けましたが終戦の翌年にはアメリカのNBCという船会社が呉海軍工廠を手に入れて造船を始めるんです。アメリカには無傷の造船所はたくさんあるのに、わざわざ空襲を受けた海軍工廠を修繕して使おうとしたのは、日本人工員の能力を買ったからです。世界一の戦艦大和ほかの優秀艦を建造した日本の造船力をアメリカは認めざるを得なかった。そして日本は復興し、昭和31年に日本の造船量は世界一になる。敗戦からわずか十年ちょっとで日本は奇跡の復元力を見せた。大和をつくった日本人の気概と技術は死んでいなかったのです。

 大和はさまざまな日本人の力が結晶した存在でした。大東亜戦争が避けられない戦争だとして私が何か任せられたとしたら、やはり戦艦大和を建造したと思います。そして大和を必ず使う。大和の存在を公表して抑止力として、また決戦場で講和の条件を追求するために最大限使う。それが大和をつくった者の思いのはずです。

 上島 悲劇的な最期を遂げた大和ですが、日本人の心の中では、たとえば「宇宙戦艦ヤマト」のように、そして大和ミュージアムの精緻な模型のように忘れられることなく甦ってきます。そこに日本人の琴線に触れる・確かな何か・があるからですね。それは大和の物語を受け止める人それぞれによって違う光彩を放つのでしょうが、日本民族にとって薄れることない輝きだと思います。

 戸高 世界一の戦艦大和は、栄光ではなく悲劇として日本の歴史に刻まれている。しかしその悲劇は誇りとともにある。この矛盾を忘れないことが、今後の日本人が誤りのない道を歩むカギになるでしょう。