戦闘配食は竹皮の握り飯 「対空戦闘用意」のラッパを吹奏

 大和はトラック島へ向かう。入港前、潜水艦の魚雷攻撃を受けたが、軽微の浸水があったものの無事、入港できた。「さすが前線だ」と身が引き締まった。トラック島は「日本の真珠湾」と言われたように多数の船が停泊していた。

 19年1月元旦の食卓は今でも忘れない。「生まれてから一度も食べたことのない御馳走が出た。いい匂いがしてリンゴまで入ってた」。後で野菜サラダとわかったそうだ。大和は総じて食事がよかったと言うが、「他艦に乗ってませんから比較できません」。

 熱帯性低気圧で南洋が荒れる。波濤は駆逐艦だけでなく、巡洋艦まで平気で頭から呑み込んだ。大和の第一艦橋は水面から34メートルの高さだ。艦橋から見下ろすと、各艦そのまま沈没するように思えるほどだった。しかし、大和は全長263メートル、公試6万9100トン、満載時7万2809トン。びくともしない。

 「皆揺れとるなー。乗員は大変やろ、と思いました。その点、大和は頼もしい船でした」。艦橋までエレベーターがあるが、士官以上でないと、使用を禁じられていた。しかし、高地さんらは多くの書類を運ぶため、黙認されていたそうだ。

 その後、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦と戦った。レイテでは姉妹艦の戦艦「武蔵」が沈められた。武蔵と大和は姉妹艦であり、なかなか見分けがつかない。「信号兵たちは、旗●信号で『我、大和』と他艦に知らせたもんです」。最早、戦況は悪化の一途。大和艦内では「今日は武蔵かい。明日は大和やなー」と言い出す乗員もいたという。



 4月6日夕刻、当直を除く全員が甲板に出た。君が代斉唱後、能村次郎副長が「各人、故郷の方角に迎え」と告げた。「遠慮はいらんぞ、大いに泣け」。しかし、すでに作戦中のため、有賀幸作艦長は第一艦橋から離れていない。高地さんも当直だった。甲板での別れの儀式の最中、艦橋内では、敵潜水艦がしきりに接触してくるため、緊迫の度を加えていた。航海長は「いっそ沖縄までアメリカの潜水艦に先導してもらうか」と話していたそうだ。
 大和ミュージアムに展示されている、戦艦大和の設計図面=2014年6月、広島県呉市(大和ミュージアム提供)
 吉田氏は盛んに「生と死」の意義を問い、「日本の、日本人のありようとは?」と考察を巡らせ、悩み抜いている。だが、高地さんは、「第一艦橋には中将らエライさんばかり詰めている。緊張感ばかりで、余計なことを考えるような状況ではありませんでした」と言う。さながら一個の機械と化し、死生の念をどこかに封印していた。

 運命の7日。「戦闘配食」が支給された。竹皮に包まれたお握りで副食(ユデタマゴと沢庵漬)が添えてあった。正午前後、東シナ海は緩やかなうねり。水平線に米軍の水上偵察機を目視できた。しかし、曇天だったため、機影の発見はじつは、やや遅れている。大和にとっては、不幸だった。「1分間に5万発撃てる、と言われた対空砲火が遅れたわけです」。

 午後零時半、ほどなく、電探(レーダー)が「大編隊 発見」の報。高地さんは海軍ラッパを構えた。およそ艦船にとって歓迎すべからざる「対空戦闘用意」が艦内に流れた。

 ♪タテタテ ティンティン
 タテタテ ティンティンティン

 数百機が何度も波状攻撃をかけて来る。その間、「戦闘記録」を担当した。戦闘機グラマンは敵操縦士の顔が見える程近く、襲って来る。魚雷は泡を吹きながら左舷に迫る。「左30 高角20 グラマンつっこんで来」。「左舷 魚雷近づく 距離…」と次々、記入した。